東京自由民主人權之聲

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「八九・六四」天安門事件弾圧を拒否した徐勤先将軍 (資料來源:高瑜)

翻訳 平岡憲人(HIRAOKA, Norito)

https://note.com/norito_hiraoka/n/nc5e40a5b090e

 本記録は、著名な「六四」研究者であり八九民主化運動参加者である呉仁華氏が2025年11月24日にインターネット上で初めて公開した「徐勤先事件公判」の録画映像を文字起こししたものである。録画には開廷日時が1990年3月17日と記されている。

 

(開廷のベルが鳴り、書記官・趙永海が告げる)検察官、弁護人は入廷してください。裁判長、裁判官は入廷してください。裁判長に報告する。検察官、弁護人は入廷済み、被告人は控室にて待機中、開廷準備は完了した。

裁判長・魏士斌(以下「裁判長」と略す):中国人民解放軍北京軍区軍事法院はこれより開廷する。被告人・徐勤先を入廷させよ!

(徐勤先は前後計3名の兵士に護送され法廷に入り、被告人席に立つ)

裁判長:北京軍区軍事法院は、中国人民解放軍軍事法院・軍事検察院の1989年軍検法字第11号通知に基づき、中華人民共和国刑事訴訟法第111条の規定に依り、北京軍区軍事検察院が公訴を提起した被告人・徐勤先の戒厳令違反事件について非公開審理を行う。非公開審理とする理由は、本件が国家機密に関わるためである。

裁判官・馮兆山:被告人・徐勤先、(徐勤先が「はい」と応答)着席せよ。他に名前はあるか。

徐勤先:ない。

裁判官・馮兆山:今年で何歳になる。

徐勤先:55歳である。

裁判官・馮兆山:何年何月の生まれか。

徐勤先:1935年8月である。

裁判官・馮兆山:民族は。

徐勤先:漢族である。

裁判官・馮兆山:本籍はどこか。

徐勤先:本籍は遼寧省瀋陽ということになるが、生まれは山東である。

裁判官・馮兆山:山東で生まれた。遼寧省瀋陽市の人である。現在の住所は。

徐勤先:北京の八大処である。

裁判官・馮兆山:具体的な場所、棟番号は。

徐勤先:沙家坡1号、20号棟2単元だと思う。

裁判官・馮兆山:学歴は。

徐勤先:短期大学卒である。

裁判官・馮兆山:いつ入隊したか。

徐勤先:1950年12月である。

裁判官・馮兆山:入隊後、どのような職務を歴任したか。

徐勤先:学員、通信兵、参謀、副大隊長、大隊長、連隊参謀長、課長、処長、師団参謀長、師団長、副軍長、軍長である。

裁判官・馮兆山:第38集団軍の軍長に就任したのはいつか。

徐勤先:1987年12月である。

裁判官・馮兆山:いつ、どの階級を授与されたか。

徐勤先:1988年9月に少将を授与された。

裁判官・馮兆山:いつから監視居住となったか。

徐勤先:1989年9月11日である。

裁判官・馮兆山:監視居住の場所はどこか。

徐勤先:北京衛戍区の上威店倉庫である。

裁判官・馮兆山:一か所だけか。

徐勤先:その後、軍区後勤492倉庫に移された。

裁判官・馮兆山:いつ、何の罪で逮捕されたか。

徐勤先:1990年1月9日である。逮捕状には「戒厳令違反」と書かれていた。

裁判官・馮兆山:逮捕後、どこに拘禁されたか。

徐勤先:北京軍区拘置所である。

裁判官・馮兆山:過去に何か表彰を受けたことはあるか。

徐勤先:功績表彰を受けたことがある。先進工作者になったこともある。いくつか表彰を受けたが、詳しくは覚えていない。

裁判官・馮兆山:功績表彰の主な理由は何か。

徐勤先:仕事に積極的に取り組み、労苦を厭わなかったことである。

裁判官・馮兆山:過去に処分を受けたことはあるか。

徐勤先:はっきりとは覚えていない。当時も、その後も処分決定書を見たことがない。批判を受けたことは確かである。一度地図を紛失したことがあり、それが処分になったのか、批判だけで済んだのかはよく分からない。

裁判官・馮兆山:過去に刑事処分を受けたことはあるか。

徐勤先:ない。

裁判官・周心華:被告人・徐勤先、(徐が「はい」と応答)着席せよ。両手を動かすな、きちんと置け。これより合議体の構成員、書記官、検察官、弁護人の名簿を告知し、法廷において享有する各権利義務を告げる。中華人民共和国刑事訴訟法第105条および中華人民共和国人民法院組織法第10条第2項の規定に基づき、本合議体は当院の大佐・副院長である魏士斌、正団級上佐裁判官・馮兆山、副団級中佐裁判官・周心華により構成され、副院長・魏士斌が裁判長を務める。当院の正営級少佐裁判官・趙永海が書記官代理として法廷記録を担当する。中華人民共和国刑事訴訟法第112条の規定に基づき、北京軍区軍事検察院の上佐・副検察長である姜吉初、正団級中佐検察官・蒋継光、正営級少佐検察官・王昌生が公訴を支持し、法廷審判の合法性を監督する。中華人民共和国刑事訴訟法第26条の規定に基づき、被告人が委託した北京軍区法律顧問処の法律顧問である楊雲凱、曲衡棟が弁護人として出廷する。

裁判官・馮兆山:被告人・徐勤先、今告知した合議体構成員、書記官、検察官、弁護人の名簿を聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判官・馮兆山:着席せよ。

裁判官・周心華:起立が必要な時は、裁判長が指示する。聞こえたか。

徐勤先:聞こえた。

裁判官・周心華:被告人・徐勤先、中華人民共和国刑事訴訟法第23条、第24条、第25条の規定に基づき、法廷において忌避申立権を有する。合議体構成員、書記官、検察官が本件と利害関係があり、公正な処理に影響を及ぼす可能性があると考える場合、理由を述べて忌避を申し立てることができる。ただし、忌避の可否は当院院長または北京軍区軍事検察院検察長が法に基づき決定する。聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判官・周心華:合議体構成員、書記官、検察官について忌避を申し立てるか。

徐勤先:申し立てない。全員に同意する。

裁判官・周心華:被告人・徐勤先、中華人民共和国刑事訴訟法第26条の規定に基づき、法廷において弁護権を有する。弁護人による弁護のほか、自ら弁護権を行使し、陳述および弁護を行うことができる。聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判官・周心華:被告人・徐勤先、中華人民共和国刑事訴訟法第118条の規定に基づき、法廷において最終陳述権を有する。裁判長が法廷弁論の終結を宣言した後、最後の発言をすることができる。自己の犯罪についてどのような認識を持つか、法廷に対してどのような要求があるか、すべて最終陳述において述べることができる。聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判官・周心華:被告人・徐勤先、中華人民共和国刑事訴訟法第119条および中華人民共和国人民法院法廷規則の規定に基づき、法廷において秩序を遵守し、法廷の指揮に従い、当法廷の審問に誠実に回答しなければならない。聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:被告人、起立せよ。これより法廷調査を行う。まず、検察官が起訴状を朗読する。

(検察官・姜吉初が起訴状を朗読)

中国人民解放軍北京軍区軍事検察院起訴状(90年京軍検訴字第1号)

被告人・徐勤先、男、漢族、現在54歳、遼寧省瀋陽市出身、小商人の家庭に生まれ、学生の身分、短期大学卒、1950年12月入隊、1956年7月入党、1987年12月に陸軍第38集団軍軍長に就任、1988年9月1日に少将を授与された。戒厳令に違反したため、1989年5月23日に軍長職を解任され、同年9月11日より監視居住となり、1990年1月9日に法に基づき逮捕された。

被告人・徐勤先の戒厳令違反事件は、解放軍軍事検察院による捜査が終結し、1989年12月8日に当院に審査起訴が委任された。

現在判明している事実:1989年5月18日16時頃、北京軍区政治委員・劉振華(当時、周衣冰司令員は上級が召集した緊急会議に出席中であった)ら指導者が軍区庁舎本館3階の会議室において、徐勤先に対し、中央軍事委員会による第38集団軍の北京派遣・戒厳任務執行命令を伝達した。劉政治委員ら軍区指導者が軍事委員会の命令と任務配置を伝達した後、徐勤先は直ちに部隊を率いて入京し戒厳任務を執行することを拒否する意思を表明した。彼は言った。「軍隊を動員するというこのような重大事は、全国人民代表大会常務委員会、国務院全体会議で討論し、果たしてこのようにするのが正しいのかどうか検討すべきである。このような命令は国家の名において発出すべきであり、党の名義で発出するのは適切ではない」。さらに彼は言った。「このような行動は歴史の検証に耐えなければならない。ある事件は短期間では判断できないかもしれないが、歴史が証明する。このような任務を執行すれば功臣になれるかもしれないが、歴史の罪人になるかもしれない」。彼は武器を携行してこのような任務を執行することは自分には不可能であると主張し、「中央軍事委員会は私を軍長に任命することも、私の職を解くこともできる。このような命令を私は執行できない。指導者は他の者を探してくれ」と述べた。軍区指導者の厳しい批判と指令の下、徐勤先は軍区作戦当直室に行き、秘匿電話で軍事委員会の命令を当該集団軍の政治委員・王福義に伝達したが、その際に王に対して「私はこのやり方に同意しない。私はこの命令を執行できない。私は指揮できない。誰が指揮するかはそちらで決めてくれ」と言った。当日夜7時頃、徐勤先は軍区85号棟招待所213号室から軍区の劉政治委員に電話をかけ、「命令は伝達した。今後この件で私を探さないでくれ」と言った。その後、徐勤先は軍区指導者に対して軍事委員会の命令を執行する意思を表明したことはなかった。

上述の犯罪事実は明確であり、書証および証人証言により裏付けられている。徐勤先が軍事委員会の戒厳命令に違反した行為は、指導機関の戒厳任務配置を妨害し、動乱および暴動分子の気焰を助長し、部隊の入城による戒厳任務執行の困難を増大させ、我が軍の政治的名誉を著しく損ない、国内外に悪質な政治的影響を及ぼした。

被告人・徐勤先は集団軍軍長の身でありながら、党と国家が存亡の危機に瀕した重要な時に、臨戦抗命し、党と国家の利益に重大な危害を加えた。その性質は悪質であり、結果は重大である。『中華人民共和国刑法』第79条の規定に基づき、『中華人民共和国軍人職責違反処罰暫定条例』第17条に準じて、被告人・徐勤先の行為は戒厳令違反罪を構成する。『中華人民共和国刑事訴訟法』第100条の規定に依り、ここに公訴を提起し、法に基づく処罰を求める。

北京軍区軍事法院 宛

(北京軍区軍事検察院)

副検察長:姜吉初

検察官:蒋継光、王昌生

1990年1月10日

裁判長:被告人、着席せよ。被告人・徐勤先、これより本法廷は起訴状の訴因に基づき、貴殿の戒厳令違反の犯罪事実について調査を行う。被告人・徐勤先、いつ、どこで、誰からの通知を受けて北京軍区機関に任務を受領しに来たのか。

徐勤先:1989年5月18日昼、軍の唐明洪副参謀長から電話があり、軍区に任務を受領しに来るよう言われた。

裁判長:唐明洪はどのように通知したのか。

徐勤先:電話で通知された。

裁判長:電話で通知された。貴殿は唐明洪に何と言ったのか。

徐勤先:当時私は病気で入院していたので、彼は行けるかどうか尋ねた。私は昨日結石が排出されたので、今なら何とか行けると答えた。

裁判長:貴殿はいつ、何の病気で北京軍区総医院に入院したのか。

徐勤先:89年5月16日昼頃、房山280医院から泌尿器系結石のため軍区総医院に転院した。

裁判長:医院の何科に入院していたのか。

徐勤先:内科5病棟である。

裁判長:泌尿器結石はいつ排出されたのか。

徐勤先:5月17日夕食前後である。

裁判長:結石が排出された後、当時の身体状況はどうであったか。

徐勤先:虚弱、痛み、無力感があった。5月15日に発症してから二、三日苦しんでいたためである。体力は尽き、身体は疲弊し、また身体の多くの部位に痛みがあった。

裁判長:入院中、泌尿器結石以外に他の病気もあったか。

徐勤先:当時、3月中旬の集訓で足を痛めたので、ついでに検査してもらった。その他はついでの検査である。

裁判長:以下、第38集団軍司令部副参謀長・唐明洪の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が証言を朗読)5月18日12時30分、私は軍区作戦部の洪水豊同志から電話を受け、「貴軍の軍長に午後3時に軍区庁舎本館3階会議室に会議に来るよう伝えてくれ」との通知を受けた。私は何の用件かと尋ねると、任務があるとのことであった。同時に彼は私に、直ちにヘリコプターを石家荘に派遣し、27軍の秦軍長を軍区の会議に連れてくるよう指示した。この電話を受けた後、徐は当時尿道結石で軍区総医院に入院しており営舎にいなかったため、私は直ちに状況を王政治委員および軍で留守を預かる他の指導同志に報告した。私は軍長が病気で入院中であるため、王政治委員が会議に出席してはどうかと提案した。王政治委員は「軍区に伺いを立ててくれ、私が行ってもよいか」と指示した。私は直ちに電話で洪部長に伺いを立てた。洪は軍区首長に確認した後、「政治委員では駄目だ、必ず軍長が来なければならない」と回答した。私は軍区の意見を王政治委員に報告し、直ちに電話で軍区総医院に入院中の徐軍長に通知した。徐は当時「何の用か」と尋ねたので、私は分からないが任務かもしれないと答えた。徐はさらに「どうしても私が行かなければならないのか」と尋ねたので、私はすでに軍区に伺いを立て、軍区がどうしてもあなたでなければならないと言っていると答えた。徐は「それなら行こう」と言った。1989年7月28日 唐明洪

裁判長:今朗読した唐明洪副参謀長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:唐明洪副参謀長の証言は以下を証明している。5月18日昼12時39分、彼は軍区作戦部の洪部長から電話を受け、第38集団軍軍長に午後3時に軍区庁舎本館3階会議室に会議に来るよう通知を受けた。第38集団軍政治委員・王福義に報告し、軍区首長に伺いを立てた後、電話で軍区総医院に入院中の徐軍長に通知した。貴殿は自ら軍区に会議に行くと応じた。被告人・徐勤先、唐明洪副参謀長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:証言は基本的に事実に合致している。ただ中間で私が行けるかどうかということについて、私は自分の身体状況を説明し、行けると言った。前日に結石が排出されたからである。当時彼は私の病状をあまり詳しく知らなかった。もし17日夕食前の状況であれば、私は行けなかった。私は病状を説明し、行けると表明した。当時の具体的な時間はよく覚えていない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:被告人・徐勤先、何時に北京軍区機関に任務を受領しに到着したのか、何時に北京軍区総医院を出発したのか。

徐勤先:具体的な時間は覚えていない。当時電話を受けてから車を探したが、その時車は駅に行って衛生所長を営舎に送っており、まだ戻っていなかった。私はまた総院に車を手配してもらうよう依頼した。何度か電話をかけたがつながらなかった。院長やら院務処やら。最後にまた軍区作戦当直室に電話し、軍区後勤に伝えて医院に車を手配してもらうよう頼んだ。この間に時間がかかった。その後、医師が私が軍区に行くことを知り、数名の医師が来て身体を診察し処置してくれた。当時病後で身体が弱っており、いろいろ問題があったので、彼らは注射を打ち薬を出し、しばらく処置してくれた。その後、車が戻った。具体的な時間は覚えていないが、おそらく14時から15時の間であろう。

裁判長:最終的に誰の車で行ったのか。運転手は誰か。

徐勤先:我々軍の車で、運転手は屏発奎である。

裁判長:何時に北京軍区機関に到着したのか。

徐勤先:おおよそ16時頃であろう。

裁判長:軍区機関のどこで任務を受領したのか。

徐勤先:当時覚えているのは3階西側の会議室、軍区本館3階である。東側のエレベーターに乗り、西に向かい、会議室は廊下の南側にあった。

裁判長:軍区機関で任務を受領した際、軍区のどの首長と職員が参加していたか。

徐勤先:劉政治委員、李副司令員、鄒参謀長、後勤の徐部長は先に来ていたのか会議の途中で来たのか覚えていない。他に作戦部の部長、顔見知りだが名前が思い出せない人もいた。あと数名の職員がいた。

裁判長:軍区司令部の黄雲橋副参謀長は参加していたか。

徐勤先:鄒参謀長、黄雲橋副参謀長。

裁判長:作戦部の戴金生副部長は参加していたか。

徐勤先:これは覚えていない。

裁判長:知っているか。

徐勤先:知っている。

裁判長:軍区から任務が下達されたのは何時からか。

徐勤先:正確な時間は記録していなかったので、今は思い出せない。おおよそ16時頃である。上に着いてから、衛戍区の指導者が去った後、私に説明が始まった。

裁判長:軍区から任務を下達した首長は誰か。

徐勤先:主に三人の首長が話した。劉政治委員、李副司令員、鄒参謀長である。私の記憶では、劉政治委員が状況を説明し、北京でデモが行われており以前より発展して状況がやや深刻になっていると述べた。李副司令員が主に戒厳の具体的任務を説明し、どの部隊が何人出し、どれだけの武器装備を出すかを述べた。鄒参謀長が具体的な要求を述べた。簡単なメモがある。

裁判長:この三人の首長から下達された主な任務は何であったか。

徐勤先:戒厳任務である。

裁判長:どこへの戒厳任務か。

徐勤先:入京である。いくつかの地点が指定され、まずこれらの地点に進入する。これらの地点、あまり覚えていないが、砲兵、通信兵部などに駐留し、いくつかの位置が指定された。まずこれらの位置に行く。

裁判長:入京して戒厳任務を執行する。

徐勤先:そうである。

裁判長:誰を入京させて戒厳任務を執行させるのか。

徐勤先:我々軍からは15,000人、200から300両の装甲車、その他携行武器・弾薬である。

裁判長:何時に、いつまでに北京に到着するよう求められたか。

徐勤先:5月20日である。

裁判長:具体的に何時か。

徐勤先:覚えていない。とにかく20日である。

裁判長:もう一度考えてみよ。

徐勤先:思い出せない。20日ということしか覚えていない。当時のメモには書いてあるかもしれない。当時は具体的な出発時間は決められておらず、とにかく20日到着であった。

裁判長:部隊が北京到着後の集結地域はどこか。

徐勤先:今は覚えていない。当時は軍事委員会総部の敷地などがあった。

裁判長:軍部はどこに駐留するか。

徐勤先:総参通信兵である。

裁判長:もう一つ聞く。劉振華政治委員は当時どのように話したか。

徐勤先:正確には覚えていない。ぼんやりとした印象では、楊(尚昆)副主席が軍事委員会総部の数名の指導同志を召集して会議を開いたと言っていた。北京で当時デモが行われている状況がやや発展しており、我々が一歩退くと彼らは一歩進む、胡耀邦の小冊子を配っている者もいる、中央を打倒するなどと言っている、と述べた。他にもいくつかの状況があったが、ほぼ一年経っているのでよく覚えていない。大体そのようなことである。

裁判長:劉政治委員は戒厳の問題について話したか。どのように話したか。

徐勤先:これはよく覚えていない。劉政治委員が話したのか、李副司令員が話したのか、あるいは両方の首長が話したのか。私の印象では、劉政治委員が状況を説明し、李副司令員が具体的に戒厳任務を説明した。

裁判長:どの部隊を北京に派遣して戒厳任務を執行させるかについて話はあったか。

徐勤先:これはどの首長が話したか分からないが、いくつかの部隊があり、北京衛戍区、27、それに65、合計で45,000人か50,000人出すとのことであった。

裁判長:これは劉政治委員が話したのか。

徐勤先:李副司令員が話したようである。

裁判長:劉政治委員は他に何か話したか。

徐勤先:今は思い出せない。当時メモがある。

裁判長:李副司令員が主に話したのは何か。

徐勤先:李司令員はこれらの具体的な戒厳任務を話した。どの部隊が何人出すか、どれだけの武器装備を出すか。どの位置に駐留するかは、彼が話したのか鄒参謀長が話したのかよく覚えていない。

裁判長:戒厳部隊が何人出し、どの武器装備を携行するか、これらはすべて李副司令員が話した。他に誰が話したか。

徐勤先:鄒参謀長が進駐後のいくつかの要求について話した。

裁判長:どのような要求か。

徐勤先:要求は服装についてや、その他何かの問題、六、七項目話したが、よく覚えていない。メモがある。

裁判長:他の首長も話したか。

徐勤先:覚えていない。当時、前回法院の同志が来て聞いた時、徐部長が話したかもしれないと言っていた。その後私が思い出してみると、徐部長が話したかもしれない。数言話した。元々覚えていなかったが、彼が話したのは生活保障のことに他ならない。

裁判長:被告人・徐勤先、第38集団軍を北京地区に派遣して戒厳任務を執行させる、これはどこからの命令か。

徐勤先:当時はどの級からの任務か明確には言っていなかったように思う。しかし私の印象では、これは軍事委員会総部の命令であった。

裁判長:北京の一部地区への戒厳実施は、どこが決定したのか。

徐勤先:当時のことは印象がやや曖昧である。楊副主席が数人を召集して会議を開いたということ、その他にどのような内容があったか、今はよく覚えていない。

裁判長:北京の一部地区への戒厳実施がどこの決定かは言っていなかったか。

徐勤先:言っていなかったように思う。

裁判長:今は分かっているか、どこの決定か。

徐勤先:今はもちろん分かっている。党中央、中央軍事委員会、国務院が発布したものである。

裁判長:被告人・徐勤先、北京軍区首長が中央軍事委員会による第38集団軍を北京に派遣して戒厳任務を執行させるという命令を下達した後、貴殿は第38集団軍軍長として、当時どのように表明したか。中央軍事委員会の命令を執行することに対してどのような態度を取ったか。

徐勤先:これらの指導同志が話し終わった後、私はまずいくつかよく分からない問題を質問した。伝達が比較的早かったため、メモも正確でなく、いくつかの問題がよく分からなかった。私はよく分からないこれらの問題を質問した。その中で印象が深いのは武器装備の携行についてである。武器装備の携行は各種軽火器、自動小銃、短機関銃、何発の弾丸を携行するか、拳銃およびその他の武器について説明があった。当時「その他の武器」という概念がよく分からなかったので、その他の武器には何が含まれるか質問した。首長は軽重機関銃、高射機関銃も含むと答えた。当時さらに装甲車について、戦車6師は足りるかとも言った。私は編成表を調べ、戦車6師は修理中のものを除くと装甲車は200-300両には達しないと確認した。他にもいくつかよく分からない問題があり、分からない問題をすべて質問し、首長も回答し終わった後、私は次のように述べた。この件について私は異なる意見がある。これは群衆性の政治事件であり、主に政治的方法で解決すべきである。もし武力を使用するなら、衛戍部隊、公安、武警で十分である。もしどうしても野戦軍を使うなら、野戦軍を北京近郊に配置し、威嚇を維持することを提案する。後の言葉は当時言わなかったが、威嚇を維持し、対処の余地を残し、武力を政治的解決の後ろ盾とする。これらは言わなかった。私はこのような重大事は十分に検討すべきであると述べた。中央政治局、国務院、中央軍事委員会で会議を開き、どう処理するのが適切かよく討論することを提案した。軍は国家体制に組み込まれているので、人民代表大会でも討論できると述べた。この任務は前線で戦闘したり、災害救助に行くのとは異なる。あれらの作戦任務は戦線も比較的明確で、任務もはっきりしている。このような任務で武器装備を携行し、善人と悪人が混在し、軍と民間人が混在する中、どう執行するのか。誰を撃つのか。続いて私は、このような命令は軍区から軍に直接伝達するのがよいと表明した。その後数名の首長が「それでも君が伝達したほうがよいだろう、君が伝達しないのはまずいだろう」と言った。当時私は、上級は私を任命することも免職することもできる、この任務がうまくいけば功臣になれるが、うまくいかなければ歴史の罪人になるかもしれないと言った。途中で数名の首長が「軍長である君を通さずに直接伝達するのはまずいだろう」と言った。私は軍は党が絶対的に指導するもので、誰か一人に従うものではない、誰が伝達しても同じであると述べた。当時この任務の複雑さを考えると、先ほど述べた通り、善人と悪人が混在して区別がつかず、軍と民間人が混在して区別がつかず、衝突が発生し、将来問題が起きたら誰が責任を取るのか。首長は我々が共同で責任を負う、皆で責任を負うと言った。私は「話ではそうだが、問題が起きたらやはり直接の責任者の責任になる」と言った。その後もやはり「君が伝達したほうがいい」と言われた。何度か言われて、その後私はやはり伝達した。

裁判長:他に何か表明したか。

徐勤先:他に表明したことはない。

裁判長:命令を執行するのか、しないのか。

徐勤先:当時私は命令を伝達しに行った。この時他に何かを言ったかは覚えていない。

裁判長:もう一度考えてみよ。

徐勤先:他にはない、他に何も言っていない。

裁判長:被告人・徐勤先、「軍隊を動員するこのような重大事は、全国人民代表大会常務委員会、国務院全体会議で討論し、このようにするのが正しいかどうか検討すべきである」、これらの言葉は言ったか。

徐勤先:そのようには言っていない。私が言ったのはこのような重大事、軍隊を動員してこの問題を解決することだけを指したのではなく、事件全体についてである。このような重大事は慎重に再検討し解決すべきであると。だから私は中央政治局、国務院、中央軍事委員会で討論してどうすればよいか決めることを提案した。また、この問題の解決はすでに軍隊を動員する問題に関わっているので、当時私は軍隊は国家体制に組み込まれているので人民代表大会でも討論できると付け加えた。この順序で話した。

裁判長:その趣旨はあったということである。このような重大事は討論すべきだと、人民代表大会、国務院で討論すべきだと。

徐勤先:その趣旨はあるが、その中には大きな違いがある。

裁判長:どのような違いがあるのか。

徐勤先:我が軍は党が絶対的に指導するものであり、中央政治局で討論しようと、中央軍事委員会で討論しようと、これらはすべて可能である。私が話した時の趣旨は明確で、中央政治局、国務院、中央軍事委員会で討論することである。後から出てきた事件は軍隊の動員に関わっている。もし過去の憲法に従えば、人民代表大会常務委員会は討論できないが、今は国家体制に組み込まれているので、人民代表大会常務委員会も討論できる。最後に私はもう一言付け加えた。科学的、民主的な政策決定と言っているではないか、これも中央が言っていることである。だから私は中央政治局、国務院、中央軍事委員会で討論することを提案した。今私が人民代表大会常務委員会、国務院で討論してこれが正しいかどうか検討すべきだとだけ言ったとすれば、主従が逆転している。科学的、民主的な政策決定手続きとして、中央での討論、中央軍事委員会での討論、もちろん政策決定の科学化、民主化のために、他の国家機関も党の指導の下で必要な討論を行うことができる。しかし中央政治局を外して、他の国家機関だけに討論させるわけにはいかない。それは憲法に合致せず、我が軍の伝統に合致せず、我が軍の根本制度に合致しない。この事件の処理であれ、軍隊の動員に関わることであれ、同じ道理である。憲法には中国共産党が国家の政治生活において指導的地位にあると明記されているからである。

裁判長:つまり貴殿は中央政治局での討論を提案したと述べたということである。

徐勤先:中央政治局、中央軍事委員会である。

裁判官・馮兆山:では北京の一部地区への戒厳について、中央政治局が討論していないと貴殿はどうして分かるのか。中央軍事委員会が討論していないと。

徐勤先:当時どのように決定されたかはよく分からなかった。当時このような処理を聞いて、この決定が科学化、民主化、正確かどうか、科学的民主的な政策決定手続きから……

裁判長:先に続きを言うな。私が聞いているのは、政治局、国務院が討論していないと貴殿はどうして分かるのかということである。

徐勤先:分からなかった。

裁判長:「軍隊を動員する、これだけ多くの軍隊を完全武装で北京に来させるには、文書命令が必要である。このような命令は国家の名で発布すべきであり、党の名義で発布するのは適切でない」、この言葉を当時言ったか。

徐勤先:会議の最終段階になって、今回私はこれは重大事であると述べ、軍区が文書命令を出すのがよいと提案した。これは述べた。「国家の名義で発布すべきであり、党の名義で発布するのは適切でない」ということについては、私の頭の中にそのような考えはなく、会議でもそのようなことは全く言っていない。頭の中に全くそのような概念がなかったからである。

裁判長:「今、銃を持って装甲車を駆って入城するのは正しいのか」、この言葉は言ったか。

徐勤先:その言葉はそのようには言っていないと思う。もし言ったとすれば、現在、これはつまり、この群衆性の政治事件は政治的方法で解決すべきであり、このような処理が適切かどうか、この趣旨は述べた。先ほど裁判官・馮兆山がこの趣旨について述べたが、この言葉はそのように言った覚えがない。裁判官・馮兆山にもう一度言っていただき、もう一度思い出してみたい。

裁判長:「今、銃を持って装甲車を駆って入城するのは正しいのか」

徐勤先:そのようには言っていない。もし言ったとすれば、武力でこの問題を解決することが適切かどうかということである。

裁判長:「このような行動は歴史の検証に耐えなければならない。ある事件は短期間では分からないかもしれないが、歴史が証明する」、この言葉を当時言ったか。

徐勤先:これは当時言ったのか、その後言ったのか、よく覚えていない。これは思想としては持っていたが、どの場で、あるいはいつ言ったかは、よく覚えていない。

裁判長:「このような任務を執行すれば、功を立てられるかもしれないが、歴史の罪人になるかもしれない」、この言葉を当時言ったか。

徐勤先:この言葉は当時言った。

裁判長:「中央軍事委員会は私を軍長に任命することも、私の職を解くこともできる」、この言葉を当時言ったか。

徐勤先:当時この趣旨のことは言ったが、この言葉はそのようには言っていないと思う。私はこの命令は軍区から軍に直接伝達するのがよいと言った。首長は「軍長である君を通さないのはまずいだろう」と言った。私は「上級は私を軍長に任命することも免職することもできる」と言った。中央軍事委員会とは言っていない。

裁判長:どこが任命でき、どこが免職できるのか。

徐勤先:当時は言わなかった。もちろん任免権を持つところであるが、当時は言わなかった。

裁判長:「このような命令を私は執行できない、指導者は他の者を探してくれ」、この言葉を当時言ったか。

徐勤先:この言葉は続けて、つまりこの任務は善人と悪人が区別できない、軍と民間人が混在している、どうやって執行するのか、とこのように言った。

裁判長:どう言ったのか。

徐勤先:つまり私はこの任務は作戦や、災害救助とは異なると言った。あれらは任務が明確で戦線が分明で、目標も明らかである。この任務は善人と悪人が混在し、軍と民間人が混在している、これはどう執行するのか。これは執行できない、とは言っていないと思う。

裁判長:では善人と悪人がどうだと。後を明確に述べよ。

徐勤先:私はどう執行するのかと言った。当時「どう執行するのか」と言ったのか「執行できない」と言ったのか、「どう執行するのか」と言ったと思う。

裁判長:「指導者は他の者を探してくれ」、この言葉は言ったか。

徐勤先:この言葉はよく覚えていない。この件について私の印象では、指揮班子は一人ではなく、チームである。「他の者を探してくれ」というのは、これは他を探す必要はなく、軍長がいなければ副軍長がいるし、軍政指導者もいる、政治委員がいる、参謀長がいる。だから当時このことは言っていないと思う。

裁判長:被告人・徐勤先、軍事委員会の命令の執行について、貴殿は結局どのような態度であったか。軍区首長が命令を下達した後、命令の執行について結局どのような態度であったか。

徐勤先:当時私はこの問題について思想的に納得できないところがあった。理由は先ほど述べたことである。

裁判長:私の質問に直接答えよ。軍事委員会の命令の執行について当時結局どのような態度であったか。単に思想的に納得できないという問題なのか、断固として執行しないという問題なのか、それとも何なのか。この質問に直接答えよ。

徐勤先:そうである。

裁判長:軍区首長が軍事委員会の命令を下達した後、貴殿は軍事委員会の命令に対して不執行を表明した。貴殿のこのような態度に対して、当時軍区首長は批判したか。どのように批判したか。

徐勤先:よく覚えていない。最初私が伝達したくなかった時、「君が伝達しないのはまずいだろう、軍長である君を通さないのはまずいだろう」と言われた。首長たちには批判の意味があった。原話はよく覚えていない。

裁判長:首長が貴殿を批判した。批判された後、貴殿の態度はどうであったか。

徐勤先:その後私は命令を伝達しに行った。

裁判長:では貴殿はいつ、どこで、どのような方法で第38集団軍政治委員・王福義に軍事委員会の命令を伝達したのか。

徐勤先:時間としては、任務を受領し途中で私が異なる意見を述べ、首長たちが何か批判の言葉を言い、その後「伝達しろ」と言われて、私は伝達した。誰かが私を会議室の斜め向かいに連れて行ったか分からないが、外に小さな部屋があり、電話があった。電話をつなぎ、王福義政治委員に伝達した。

裁判長:誰と一緒に行ったのか。

徐勤先:よく覚えていない。

裁判長:誰かと一緒に行ったのか。

徐勤先:誰かが連れて行ってくれたと思う。

裁判長:誰かが連れて行った。それはどこか。

徐勤先:作戦室の何かの部屋のようで、作戦室ではなく、作戦室に付属する小さな部屋である。

裁判長:王福義政治委員に、軍区から下達された命令をすべて伝達したか。

徐勤先:覚えていることはすべて伝達した。

裁判長:伝達する時、つまり電話している時、その場に他に人がいたか。

徐勤先:他に人はいなかったと思う。人が出入りして忙しそうであった。

裁判長:誰がいたか覚えていないか。

徐勤先:具体的に誰かは覚えていない。出入りがあり、とにかく人がいた。

裁判長:王福義政治委員に命令を伝達し終わった後、彼に他に何か言ったか。

徐勤先:伝達し終わった後、大体の意味として、命令はこれだけの内容だと言った。「あなたたちで検討して執行してくれ」と言い、「私は異なる見方があり、すべて軍区首長に話した。あるいはこの件は、私も参加したくない」と言った。

裁判長:他に何か言ったか。

徐勤先:大体の意味はこれだけである。

裁判長:そのように言ったのか。

徐勤先:そうである。

裁判長:考えがあると言っただけで、参加したくないと。他に何か言わなかったか。

徐勤先:他のことは覚えていない、何も言っていない。

裁判長:軍事委員会の命令の執行について、他に何か表明したか。王福義に対して他に何か表明したか。

徐勤先:参加したくないということだけである。

裁判長:王福義政治委員に電話し、命令を伝達し終わった後、どこへ行ったか。

徐勤先:85号棟に夕食を食べに行った。

裁判長:軍区85号棟招待所。誰と一緒に行ったのか。

徐勤先:ある処長と行ったと思う、おそらく馬という姓の人である。

裁判長:馬という姓の処長。軍区機関の人か。

徐勤先:機関の、作戦部であろう。

裁判長:作戦部の馬処長、馬景然処長か。

徐勤先:彼の名前は知らない。

裁判長:行ってから85号棟招待所のどこに泊まるよう手配されたか。

徐勤先:覚えていない。2階のある部屋であろう。

裁判長:どちら側か。東か西か。

徐勤先:西側である。

裁判長:軍区85号棟招待所に着いてから、いつ、どこで軍区の劉振華政治委員に電話したのか。

徐勤先:大体19時頃であった。食事を終えてしばらくそこにいて、この件をどうするか考えた。私は総院から来たのであり、この任務については、とにかく伝達は終わり、事情も分かった。個人の思想としてはあまり参加したくなかった。その後。軍区が私を85号棟にいさせようとした意味は、当時私が理解したところでは、戻らなくてよい、部隊はすぐ来るからということであった。しかしこの時私の思想にはまだ解けない疑問があった。考えて、劉振華に電話した。「政治委員、命令はすべて伝達しました。私は総院から来たので、総院に戻って入院を続けます。今後この件で私を探さないでください」と言った。当時劉政治委員は数言述べた。一つは、もともと私が入院していたことを知らなかったかもしれない。私を批判もした。原話はよく覚えていない。私は「首長のお考えは分かります。とにかく今は思想的に納得できません。これで総院に戻ります」と言った。

裁判長:「命令は伝達しました。今後この件で私を探さないでください」、この言葉を劉政治委員に言ったか。

徐勤先:言った。とにかくこの言葉が正確かどうかは分からないが、大体その意味である。

裁判長:劉政治委員は貴殿を批判したか。

徐勤先:批判した。

裁判長:劉政治委員に電話し終わった後、どこへ行ったか。

徐勤先:総院に戻った。

裁判長:何時に軍区85号棟招待所を離れたか。

徐勤先:大体19時頃であろう。

裁判長:招待所を離れた後、どこへ行ったか。

徐勤先:総院に戻った。

裁判長:軍事委員会の命令の執行について、その後軍区首長に何か表明したことはあるか。

徐勤先:軍区首長とはその後直接接触していない。

裁判長:つまり他に何の表明もなかったと。

徐勤先:直接にはない。あるとすれば王福義が軍区首長に報告したことである。

裁判長:私が聞いているのは、軍区首長に対して軍事委員会の命令の執行について直接何か表明したかということである。

徐勤先:直接にはない。

裁判長:以下、第38集団軍警交連班長、徐勤先の警衛員である賈語村(音)の証言と、徐勤先の公文書カバン内の書類整理登記の第1頁を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)5月24日あの日、数人が徐軍長の病室に入ってきて「徐軍長は退院した。彼の荷物を片付けてくれ」と言った。私は荷物を片付けたが、公文書カバンを手に取った時、この数人は誰も知らないし、何をしに来たのかも分からないと思った。他の荷物は渡せるが、公文書カバンは徐軍長が肌身離さず持っていたもので、中身はきっと重要なものだから、彼らに渡すわけにはいかない。そこで私はこのカバンは私のものだと嘘をつき、自分で持ち帰ると言った。彼らも何も言わず、私の手元に残してくれた。カバンを持ち帰った後、当時混乱していて、カバンを誰に渡すのが最も適切か分からなかったので、大きな木箱に鍵をかけてしまい、いつか徐軍長本人から求められたら取り出すことにした。5月24日から10月10日の間、誰もこのカバンを見ておらず、中身も見ていない。最近、保衛処の朱幹事、政治部の李主任が相次いでカバンのことを聞きに来たが、私も事情が分からなかったので渡さなかった。私は徐軍長の警衛員であり、本人に対して責任があり、カバンは本人に渡すのが最も適切だからである。今日専案組の同志が来て、徐軍長が公文書カバンを求めていると言った。私は安心できなかったが、よく考えた結果、やはり公文書カバンを彼らに渡した。彼らは徐軍長の専案組であり、上級組織から派遣された者なので、信用すべきであると。以上が公文書カバンについての私の対応である。1989年10月10日。

徐勤先公文書カバン内書類整理登記第1項、一、89年5月18日午後軍区にて命令受領時の記録、計4頁。

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した警衛員・賈雨村の証言と書類整理登記の第1頁は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:警衛員・賈雨村は以下を証明している。貴殿の公文書カバンは5月24日に貴殿が軍区総医院を離れた時、彼が貴殿の病室から持ち出し、その後ずっと彼が保管していた。10月10日に専案組に渡された。整理の結果、貴殿の公文書カバン内の書類には、1989年5月18日に軍区で命令を受領した時の記録4頁がある。貴殿の公文書カバンの中の書類はまだたくさんあるが、第1項は貴殿の記録である。被告人・徐勤先、警衛員・賈雨村の証言と書類整理登記について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。当時なぜ私の公文書カバンがなかったかというと、私が去る時に公文書カバンがないと言ったからである。当時軍区のあの数人の職員の中には私が知らない者もいた。私はまだカバンを一つ持って行っていないと言ったが、彼はあのカバンは警衛員のものだと言った。私は彼のものではない、私のものだと言った。当時軍区機関が何を意図しているのか分からなかった。だからこのことを言ったのだが、その後このカバンはずっと私の手元になく、去る時もこのカバンを要求した。だから具体的にどう持って行かれ、残されたかは分からない。

裁判長:賈雨村の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:特に意見はない、私は事情を知らない。

裁判長:この整理登記について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:以下、被告人・徐勤先が軍区で命令を受領した時の直筆記録のコピーを朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)89年5月18日、16時。劉政治委員、李副司令員、鄒参謀長、徐部長、彭部長が召集した会議。三座門で会議に参加、楊副主席、劉凱副秘書長ら同志。楊主席が主に述べた:学生が座り込み、ハンガーストライキを6日間続けている。私は忍耐した。私が進めば彼が退く。「四・二六社説」、27日のデモのスローガンは変更された。私は党と一致すると表明し、26日の社説は正確だと提起した。社説の取り消し、民主運動としての承認。計画的な動乱であり、彼は受け入れない。26日の社説は動揺させられない。ゴ(ゴルバチョフを指す)来訪、多くのことが計画通りに執行できなかった。赤絨毯は敷かれず、とても慌ただしかった。指導者が舗装路を歩いたのは初めてである。ゴは15日に来訪、14日にハンガーストライキ、統一戦線部が両者と協議し、場所を譲ったが、その後また連絡がつかなくなった。赤十字会の規則では4日以上の絶食は治療が必要だが、その後また連絡がつかなくなった。しかし22日の追悼会後、目的は党と政府を打倒し、政府、人民代表大会常務委員会、軍事委員会を改組することであり、会談を妨害した。番組を見て、ソ連の客人は理解を示した。記者が天安門の学生についての見解を質問すると、ゴはどの国にもある、赤の広場には今はないが、今後あるかもしれないと述べた。昨日、広場と長安街に百万人、鎮静化の方法を考えた。二つの方案:一つ目の方案はさらに退き、学生の要求に応える。今は26日の社説を追及し、誰が書いたか追及し、自治組織を承認しようとしている。工作を行う同志は非常に受け身になっている。現在北京以外に拡散し、太原で騒動、西安にもあり、各地からも支援に来ている。ずっと続けば文化大革命のようになる。あの時は毛・周の言葉は聞いたが、今は誰の言葉も聞かない。二つ目の方案は第二陣地を維持し、26日の社説の声明が正確であると認め、26日の社説の精神を執行する。悪人が指揮している。アメリカの議員、現場には外国人がいる。内部原因:我々の活動の問題として反汚染自由化を徹底しなかった。今、耀邦の小冊子が多く出ており、これに依拠して中央を攻撃している。26日の社説は、その後フォローせず、また硬直化した。こちらが進めば彼らが退く。局面を収拾するため戒厳を実施する。首相には首都を含む戒厳の権限があるか?法学者が論証中である。国務院令に基づき部隊を派遣し主要目標、首脳機関を護衛する。単純な秩序維持ではない。3〜5個師団、5万人を派遣する。38集団軍1万5千人、65集団軍1万人、63集団軍1万人、27集団軍1万人、衛戍区6千人。武器を携行する。幹部は拳銃を携行、部隊は短機関銃、機関銃、弾薬を携行する。訓練を行い、発砲しない、死者を出さないよう努める。背後に誰がいるかは不明。首都の安全は北京軍区に頼ることになる。

李:1、装甲車300両、200両を下回らない。弾丸、小銃、短機関銃、拳銃各50発、その他は1基数。連単位で携行、新兵は参加させない、問題を起こしやすい者は参加させない、留守番を組織する。2、行進と集結を組織する。五棵松以東、軍事博物館、通信兵、砲兵、装甲兵、警備1師、長新店24団。2批に分ける:第1批は20日夜24時に三角、通信部に進入し軍部を置く。3、服装:鉄帽、新式服、背嚢、革靴、炊事車。4、生活を組織する。ただし事前に建物を消費してはならない、建物に入れなければテントに住む、後勤に解決を求める。5、管理を組織する、政策に違反しない、事故なし。7、機密保持、兵士に言うべきでないことは言わない、期間がどれくらいかは言わない、院内指揮、新薬師は小組を派遣する。

鄒:1、軽火器は各人1挺を執行。2、テントは数字を報告。3、通信を確保。

徐:1、調理済み食品2食。2、炊事車。3、野菜の追加輸送。4、自身の衛生保障。

裁判長:以下、法廷は原本記録を被告人・徐勤先に確認させる。これが貴殿の記録かどうか見てくれ。

徐勤先:そうである。

裁判長:弁護人も見てくれ。被告人・徐勤先、今朗読した記録と原本記録は、貴殿が軍区で命令を受領した時の記録か。

徐勤先:そうである。

裁判長:この記録の前半部分、主に学生の座り込み、ハンガーストライキについてのこの前半部分は、誰が話したのか。

徐勤先:劉政治委員が話した。

裁判長:第二部分の「李」は誰を指すか。

徐勤先:李来柱副司令員である。

裁判長:第三部分の「鄒」は誰を指すか。

徐勤先:鄒玉琪参謀長である。

裁判長:第四部分の「徐」は誰か。

徐勤先:徐效武部長である。

裁判長:先ほど質問したが、劉政治委員がどの部隊を入京させて任務を執行させるかについて話したかどうか、貴殿は覚えていなかった。この記録では、劉政治委員が5万人を派遣すると話したとある。38集団軍1万5千人、65集団軍はいくら、63はいくら、衛戍区はいくら、これは劉政治委員が話した。記録にある。

徐勤先:劉政治委員が話したのか。

裁判長:先ほど貴殿に朗読したではないか。

徐勤先:よく見ていなかった。

裁判長:装甲車300両、200両を下回らない、弾丸、小銃、短機関銃、拳銃各50発、これは李副司令員が話した。貴殿の記録はこのようになっている。李副司令員が話した第二の問題の中で、行進と集結を組織するということ、この中で第1批は20日夜24時に三角、通信部に進入し軍部を置くとあるが、この文はどういう意味か。

徐勤先:20は20日である。

裁判長:「明晩」は。18日に伝達された命令である。

徐勤先:19日夜であろう。

裁判長:「24時」は。

徐勤先:24時であろう。これは20日の24時である。

裁判長:20日24時に三角に進入するとはどういう意味か。

徐勤先:軍指揮所である。

裁判長:指揮所に進入する、通信部に軍部を置く。つまりこのように言えるか、第38集団軍に対し20日24時に指揮所に進入するよう命令したと。

徐勤先:これはよく覚えていない。

裁判長:覚えていないと言うな、貴殿のこの記録の意味としてはそう言うべきではないか。記録で言うべきであろう。

徐勤先:記録を今見ると、二つの意味がありうる。今は当時の記憶に頼るしかない。一つは24時、つまり20日に部隊が出発を開始する、動き始める。もう一つは24時に進入する、それなら19日に動くことになる。

裁判長:24時に進入するのであろう、これは20日24時に進入するのであり、20日に出発するとは言えない。後に進入と書いてあるではないか、24時に指揮所に進入する、そうであろう。

徐勤先:これは正確には覚えていない、とにかくこの二つの意味がありえる。当時具体的にどう言ったかを見れば、当時の意味は間違いなく非常に明確であった。

裁判長:以下、北京軍区政治部保衛部(保証字第01号)鑑定結論を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)保証字第01号鑑定結論。北京軍区軍事検察院の蒋継光同志が1990年1月4日に1989年5月18日16時の会議記録4頁および徐勤先の直筆による交代材料13頁を送付し、当該会議記録が徐勤先の筆跡であるかどうかの鑑定を求めた。会議記録を検証したところ、筆記速度は比較的速く、流暢で自然であり、偽装はなく、レベルは比較的高く、字跡の特徴は安定している。徐勤先の字跡と比較したところ、両者は筆記レベル、字の書き方、運筆、配置、比率等の面で一致を示している。結論:1989年5月18日16時の会議記録は徐勤先の直筆である。

鑑定人:李献進 復核人:鍾樹棟

1990年1月5日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した鑑定結論は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:先ほど朗読した記録について、被告人・徐勤先に確認させ、技術鑑定を行った結果、被告人・徐勤先の直筆であることが判明した。この記録は被告人・徐勤先が軍区で命令を受領した時刻、参加者、命令下達の状況、および命令の基本内容を記載している。軍事委員会の指示:第38集団軍を北京に派遣して戒厳任務を執行させ、装甲車と各種武器弾薬を携行して20日24時に北京の五棵松以東の指定地域に進入せよ。被告人・徐勤先、先ほど朗読した貴殿の軍区での命令受領時の記録、および朗読した軍区保衛部の鑑定結論について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:以下、北京軍区政治委員・劉振華の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)徐勤先が中央軍事委員会の戒厳任務を拒否した状況:1989年5月18日午後15時50分頃、軍区は総医院に入院中の徐勤先同志を軍区庁舎3階会議室に呼び、軍事委員会による部隊派遣・北京での戒厳任務執行命令を伝達した。当時その場にいたのは私と李来柱副司令員、鄒玉琪参謀長、黄雲橋副参謀長、徐效武部長らであった。まず私が軍事委員会の楊尚昆副主席による部隊入京・戒厳任務執行の指示を伝達し、戒厳実施は中央政治局常務委員会が研究決定したものであり、軍隊の入京・戒厳任務執行は鄧小平主席が批准し中央軍事委員会が決定したものであると強調した。また戒厳任務執行の必要性と重要性についても話した。その後、李来柱副司令員が第38集団軍の入京・戒厳任務について具体的な配置と要求を提示した。

我々が話し終わった後、徐勤先同志は言った。「私には意見がある、上に伝えてほしい。軍隊を動員するこのような重大事は、国家人民代表大会常務委員会、国務院全体会議で討論すべきである。このようにすることが正しいのか。このような命令は国家が発布すべきであり、党の名義で発布するのは適切でない。このような重大事に、なぜ文書命令を出さないのか。部隊が武器を携行し装甲車を駆って入城することは正しいのか。このような行動は歴史の検証に耐えなければならない。ある事件は短期間では分からないかもしれないが、歴史が証明する。この任務を執行すれば功を立てられるが、歴史の罪人になるかもしれない。武器を携行してこのような任務を執行することは、私には不可能である。他の者と交代してもらいたい。中央軍事委員会は私を軍長に任命することも、軍長を解任することもできる」

徐勤先同志の重大な誤った態度に対して、私と李副司令員および在場の他の指導同志は厳しい批判教育を行い、直ちに命令を軍に伝達するよう要求した。最後に、鄒玉琪参謀長が彼を作戦部に連れて行き、軍への命令を伝達させた。彼が招待所に戻った後、また私に電話をかけてきて言った。「命令は伝えました。今後この件で私を探さないでください」。電話で私は再び彼に批判教育を行い、「今後は部隊のことも管理しなくてよい、しっかり養生しなさい」と告げた。1989年7月15日

裁判長:被告人・徐勤先、注意して聞くように。今朗読した劉振華政治委員の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:劉振華政治委員は以下を証明している。1989年5月18日15時50分頃、軍区機関本館3階会議室において、中央軍事委員会による第38集団軍入京・戒厳任務執行命令を貴殿に下達した。貴殿は当時、執行しないと表明し、「このような命令は国家が発布すべきであり、党の名義で発布するのは適切でない。武器を携行してこのような任務を執行することは私には不可能である。他の者と交代してもらいたい。軍事委員会は私を軍長に任命することも、軍長を解任することもできる」と述べた。劉政治委員は直ちに貴殿に厳しい批判を行った。当日夜、貴殿は85号棟招待所から劉政治委員に電話をかけ、「命令は伝達しました。今後この件で私を探さないでください」と述べた。再び命令の執行を拒否した。劉振華政治委員の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:今の証言は読むのが比較的速く、当時聞き取れなかったところや覚えきれないところがあった。

裁判長:聞き取れたか。聞き取れなかったならもう一度読むこともできる。

徐勤先:もう一度読んでほしい。

(もう一度朗読)

裁判長:劉振華政治委員の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:この件、どう言えばいいのか。これは私が間違って覚えていて明確に言わなかったのか、それとも首長が正確に覚えていないのか。劉政治委員のこの証言はいつ書かれたのか。

裁判官・馮兆山:7月15日である。

徐勤先:私が事後に思い出したものとは一致しない点が多い。比較的重要な不一致の点として、一つは軍隊動員というこの重大事について人民代表大会と国務院で討論すべきだという問題である。私の頭の中にはこのような概念はなく、当時も確かにこのような話はしていない。当時は命令を国務院が発布するか否かという問題にも触れていない。私は異なる意見があると言ったが、それは前に述べた通りで、このような重大な群衆性政治事件は主に政治的方法で解決すべきだということである。だから私は提案した。劉政治委員が言う通り提案である。中央政治局、国務院、中央軍事委員会で討論して、どうするのが適切か決めることを提案した。また、軍隊は国家体制に組み込まれているので、人民代表大会でも討論できると言った。科学的民主的な政策決定というではないか。つまりこの決定が誤りにならないようにという観点から、政治局、国務院、中央軍事委員会について述べたのであり、劉政治委員が言った記録・回憶とは完全には一致しない。これが当時私が話したことを首長が聞き取れなかったのか、それとも首長の記憶において私の意味の判断に何か問題があるのか、私には分からない。また命令の発布問題についても、国家が発布すべきだとか党の名義で発布するのは適切でないとか、そういう話は全くしていない。また文書命令の問題についても、私は後期になってから、この件は重大であり、今の私のこの記憶・これだけの文字の記録では、将来一旦間違いが生じた場合に確認しにくいと言っただけである。軍区が文書命令を出すのがよいと言っただけで、なぜ文書命令を出さないのかと質問したわけではない。首長も確か、過去の作戦でも先に口頭命令を下すことができた、文書命令の多くは後から出されたと言っていた。私もそれはその通り、後から出してもよいと言った。執行するか否かの問題、他の者と交代してくれ、このような激しい言葉は、当時そのような状況はなかった。当時私は伝達したくなかっただけである。首長がやはり君が伝達しろ、君が伝達しないのはまずいと言った。いくつかの挿話というか、私が話したことと首長が言ったことで一致する点もあれば、今となっては誰が間違って覚えているか、正確でないか、言いにくい点もある。とにかく私が考えたことも言ったこともないことが、まだいくつかある。

裁判長:劉政治委員は証言の中で述べている。「私は軍事委員会の楊尚昆副主席による部隊入京・戒厳任務執行の指示を伝達し、戒厳実施は中央政治局常務委員会が研究決定したものであり、軍隊の入京・戒厳任務執行は鄧小平主席が批准し中央軍事委員会が決定したものであると強調した」。また貴殿が「この任務を執行すれば功を立てられるが、歴史の罪人になるかもしれない。武器を携行してこのような任務を執行することは私には不可能である。他の者と交代してもらいたい。中央軍事委員会は私を軍長に任命することも、軍長を解任することもできる」と述べたことを証明している。また貴殿が招待所に戻った後に電話で「命令は伝達しました。今後この件で私を探さないでください」と述べたことも証明している。これらの点について何か意見はあるか。

徐勤先:あまり一致しない。

裁判長:私が読んだこれらの点について何か意見はあるか。

徐勤先:一致しない。

裁判長:どこが一致しないのか。

徐勤先:当時私が言った・覚えていることと一致しない。

裁判長:私が読んだ第一段の言葉「戒厳実施は中央政治局常務委員会が研究決定したものであり、軍隊の入京・戒厳任務執行は鄧小平主席が批准し中央軍事委員会が決定したものである」、これは分かったか。

徐勤先:分かった。

裁判長:貴殿は先ほど、どこが決定したか分からない、当時は明確でなかったと述べた。当時の伝達は明確であった。第二点は「武器を携行してこのような任務を執行することは私には不可能である。他の者と交代してもらいたい。軍長に任命することも解任することもできる」、つまり軍事委員会のこの命令を執行することについて、貴殿の態度はどうであったか。「私には不可能である、他の者と交代してもらいたい」。軍長に任命も解任もできる、つまり当時の軍事委員会命令執行に対する貴殿の態度はこのような態度であった。貴殿が先ほど述べたのもこのような意味のようであった。この意味は明確で、証明もこの意味である。第三点は、85号棟招待所に戻った後、劉政治委員に電話して「命令は伝達しました。今後この件で私を探さないでください」と言った、つまり再び命令の執行を拒否した。これら三点は分かったか。劉政治委員の証言について他に何か言いたいことはあるか。

徐勤先:一致しない。首長が述べた重要な意味については、当時私が記録できるものはすべて記録した。首長が補充したこれらの意味、これらの証言上のこれらの意味は、当時そのように話したとは覚えていない。もし私がこのような重要な話をしたなら、すべて記録したはずであり、やはり話していないのである。ただしこの任務が上級の、軍事委員会のものであることは、私の頭の中では明確であった。しかしある話を当時どう言ったかについては、記録できるものは二文字であっても一般的に記録した。記録していないものは、当時完全には言っていなかったのだろう。また第二の意味についても、そのようには話しておらず、食い違いがあり、差異がかなり大きい。

裁判長:他には。

徐勤先:ない。とにかくこの部分はあまり一致していない。

裁判長:弁護人は劉政治委員の証言について何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:検察官は何か述べることがあるか。

検察官:ない。

裁判官・馮兆山:被告人・徐勤先、劉政治委員は以下を証明している。戒厳任務命令を下達した後、貴殿はこのような命令を執行したくなかった。この態度も貴殿本人の態度であり、貴殿本人の態度を示している。この問題について何か意見はあるか。

徐勤先:当時の態度はこうであった。つまり私個人は参加しないということである。執行する・しないという言葉は一度も出ていない。会議全体およびその後に出てきたのは参加するかしないかという問題である。

裁判官・馮兆山:劉政治委員の証明は、貴殿の当時の中央軍事委員会命令に対する態度を証明している。何か意見はあるか。具体的にどの一言かは言わないが、全体として貴殿のこの態度を証明している。何か意見はあるか。

徐勤先:やはり私個人のあの態度である。私個人のあの態度について言えば、私は参加したくなかった。

裁判長:以下、北京軍区副司令員・李来柱の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)5月18日、軍区が第38集団軍軍長・徐勤先に戒厳任務を伝達した時の状況:1989年5月18日15時55分、軍区庁舎本館3階会議室において、劉振華政治委員が徐勤先に中央軍事委員会による部隊入京・戒厳任務執行命令を伝達した。私と鄒玉琪参謀長、黄雲橋副参謀長、許暁武(音)部長、作戦部彭翠峰部長、戴金生(音)副部長、許厚鼐(音)処長が在場していた。劉振華政治委員が中央軍事委員会の命令を伝達し終え、私が部隊入京・戒厳任務執行についていくつか具体的要求を提示し、戒厳は中央政治局常務委員会が討論決定したものであり、部隊入京・戒厳任務執行は中央軍事委員会が命令を下達したものであると強調した後、徐勤先は「私には意見がある、上に伝えてほしい」と言い、「軍隊を動員するこのような重大事は人民代表大会常務委員会で討論すべきであり、少数者が決定するのは正しくない。科学的決策、民主的決策に合致しない。前二回のように秩序維持で武器を携行しないならまだよいが、今は銃を持って装甲車を駆って入城する、それは正しいのか。私は正式に上に反映すべきだと考える。このような行動は歴史の検証に耐えなければならない。このような任務を執行すれば功を立てられるが、うまくいかなければ歴史の罪人になる。武器を携行してこのような任務を執行することは私には不可能である。この命令を私は執行できない。中央軍事委員会は私を軍長にすることも、私を解任することもできる。このような命令は私には執行できない、指導者は他の者を探してくれ」と述べた。徐勤先がこれらの話をしている間、軍区指導者は彼に対して何度も厳しい批判教育を行い、命令を断固として無条件に執行するよう命じた。1989年7月15日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した李来柱副司令員の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:李来柱副司令員は以下を証明している。1989年5月18日15時55分、劉政治委員と彼が貴殿に中央軍事委員会の命令と配置要求を下達した後、貴殿は「このような命令は執行できない、指導者は他の者を探してくれ。中央軍事委員会は私を軍長にすることも解任することもできる」と表明した。軍区指導者は貴殿に厳しい批判教育を行い、無条件に命令を執行するよう命じた。李来柱副司令員の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:全体として、劉政治委員の証言と同じ部分もあれば、完全には一致しない部分もある。この証言の中で少数者による決策と言っているが、私は少数者による決策とは言っていない。私は提案しただけで、この件をどう決策するかについては、前にすべて話したので繰り返さない。そのようには話していない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:以下、北京軍区参謀長・鄒玉琪の証言を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)1989年5月18日午後4時頃、軍区庁舎本館3階常務委員会会議室において、軍区が第38集団軍の徐勤先軍長に入京・戒厳任務を伝達した。参加者は軍区劉振華政治委員、李来柱副司令員、黄雲橋副参謀長、後勤徐效武部長、作戦部彭翠峰部長、戴金生(音)副部長と私であった。部隊入京・戒厳任務の状況が緊急であったため、軍区は総医院に入院中の徐軍長を軍区に呼び、直接任務を伝達することを決定した。劉振華政治委員が軍事委員会の楊副主席による首都戒厳の指示を伝達し、第38集団軍の入京・戒厳・首都秩序維持任務を明確にした。徐勤先は聞きながら記録した。伝達が終わった後、徐勤先は自分の記録を繰り返し、他の同志がいくつか補足した。続いて徐勤先は話した。「私には異なる意見がある。このような重大事で、これだけ多くの軍隊を動員し、完全武装で北京に来させるには、正式な命令が必要である。軍隊は国家体制に組み込まれており、人民代表大会が会議を開いて決定を下し、国家軍事委員会が正式に命令を下達すべきである」。この時劉政治委員は言った。「周司令員と私が直接任務を受けてきた、完全に信用すべきである」。徐は続けて話した。「それは信じる。しかし党の名義で命令を下すのは適切ではない。正式に上に反映すべきである。私にはこの任務を執行できない。軍区から軍に直接下達してもらいたい。現在の状況は明らかである。北京市には1千万以上の人口があり、こんなに多くの群衆、学生、国家機関の職員が巻き込まれている。完全武装の軍隊を動員し、装甲車を駆って解決するなら、結果は想像を絶する。軍隊の根本的職能からしても、このようにすることはできない。これは侵略に対処するのではない。もし作戦任務を執行するのであれば、問題はない。私はこの問題の深刻さを知っている。軍事委員会が私を軍長に任命できる以上、私を軍長から解任することもできる。この任務を執行すれば功臣になるかもしれないが、罪人になるかもしれない。これらの問題について、今はまだよく分からないかもしれない。しかし歴史が結論を下す」。徐勤先が話し終わった後、劉政治委員は彼の態度を厳しく批判し、その誤りを指摘し、軍事委員会と軍区の命令を迅速に部隊に下達するよう要求した。その後、私が彼を4階の第二作戦当直室に連れて行き、作戦部の李明堂参謀が第38集団軍王福義政治委員の秘匿電話をつないだ。徐勤先が王政治委員に軍区の命令を伝達した後、私は彼をエレベーターの入口まで送り、彼は85号棟招待所に向かった。以上は私の記憶に基づいて整理したものであり、当時私は記録を取っていなかったが、徐勤先が当時話した基本的な意味と食い違いはないはずである。1989年7月12日。

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した鄒玉琪参謀長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:鄒玉琪参謀長は以下を証明している。劉政治委員が貴殿に中央軍事委員会の命令を下達した後、貴殿は「党の名義で命令を下すのは適切ではない」と述べ、この命令を執行できないと表明した。直ちに劉政治委員の厳しい批判を受け、軍事委員会の命令を迅速に部隊に伝達するよう命じられた。その後、彼が貴殿を軍区作戦部第二当直室に連れて行き、第38集団軍の王福義政治委員に電話させた。電話が終わった後、貴殿は85号棟招待所に行った。鄒玉琪参謀長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:事実である部分もあれば、一致しない部分もある。全く言っていない話が多くある。当時そんなに多くの話をする時間がどこにあったのか。「党の名義で発布するのは適切でない」というような話は言っていない。これが一体どういうことなのか、分からない。

裁判長:他には。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:北京軍区後勤部部長・徐效武の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)証人尋問記録。日時1989年9月18日午後、場所北京軍区85号棟招待所。尋問者呉学宝、蒋継光、記録者于新華、証人徐效武、北京軍区後勤部部長。

問:5月18日午後、軍区常務委員が徐勤先に中央軍事委員会による第38集団軍派遣・戒厳任務執行命令を伝達した状況を話してください。

答:5月18日午後、軍区常務委員の会議は3時から始まった。最初に周衣冰司令員が軍事委員会の命令を伝達し、その後周司令員は三座門の会議に向かった。他の常務委員が各大単位に軍事委員会の命令を伝達し、まず北京衛戍区に伝達・配置し、続いて第38集団軍軍長・徐勤先に伝達した。時刻は4時頃であった。参加者は劉振華政治委員、李来柱副司令員、鄒玉琪参謀長、黄雲橋副参謀長、彭翠峰、戴金生、徐金河、そして私であった。最初に劉政治委員が軍事委員会による部隊派遣・戒厳任務執行命令を伝達した。続いて李副司令員が第38集団軍の任務を配置した。鄒参謀長も何か話を挟んだ。終わってから劉政治委員が「全部聞き取れたか」と尋ねた。徐勤先は興奮した様子で言った。「政治委員、私には意見がある。このような重大事を、このように軽率に決定してしまった。少数の人で決定してしまった。このような重大事は人民代表大会、国務院で討論決定すべきである。このような複雑な状況に直面して、この任務は執行できない。他の者を探してくれ。軍事委員会は私を軍長に任命する権限があるし、私の軍長を解任する権限もある」。ここまで話したところで、劉政治委員が彼を批判し、「どうしてそんなことが言えるのか、中央と一致を保たなければならない。頭を冷静にしろ、過ちを犯すな」と言った。私は急いで後勤に戻り、戒厳に関する後勤の事項を配置しなければならなかったので、李副司令員に一言告げて後勤部に戻った。その後の状況は分からない。当時の私の印象は、徐勤先は命令に違反している、ずっとこんなに多くの人に向かって、状況がこんなに複雑なのに、私はこの任務を執行できない、指導者は他の者を探してくれと言い続けていたというものである。

問:徐勤先がこれらの話をしたのは一気に話したのか、それとも途中で挿んで言ったのか。

答:基本的に徐勤先が一気に話した。他の人は彼の話を遮らなかった。徐勤先が当場で中央の命令の執行を拒否したことは確実である。

1989年9月18日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した徐效武部長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:徐效武部長は以下を証明している。1989年5月18日午後、軍区常務委員が会議を開き、周衣冰司令員が軍事委員会の命令を伝達した後、周司令員は三座門の会議に向かった。午後4時、軍区が貴殿に軍事委員会の命令を下達し、貴殿は当場で執行を拒否した。徐效武部長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:前の数人の首長とだいたい同じで、一致しない部分がある。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:以下、北京軍区司令部副参謀長・黄雲橋の証言を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)1989年5月18日午後3時55分、軍区首長が本館3階会議室において第38集団軍徐勤先軍長に戒厳任務を下達した。在場者は劉振華政治委員、李来柱副司令員、鄒玉琪参謀長、後勤徐效武部長、作戦部彭翠峰部長、戴金生副部長と私であった。劉振華政治委員が軍事委員会の楊副主席の指示を伝達し、第38集団軍が戒厳・首都秩序維持の任務を負うことを下達した後、徐勤先は言った。「私には意見がある、上に伝えてほしい。軍隊を動員するこのような重大事は、国家人民代表大会常務委員会、国務院全体会議で討論することを提案する。このようにすることが正しいのか。このような命令は国家が発布すべきであり、党の名義で発布するのは適切でない。北京市は人口1千万を超え、今やこんなに多くの人、こんなに多くの学生と国家機関の職員が巻き込まれている。部隊が武器を携行し装甲車を駆って入城することは正しいのか。正式に上級に反映すべきである。このような行動は歴史の検証に耐えなければならない。ある事件は短期間では分からないかもしれないが、歴史が証明する。このような任務を執行すれば功を立てられるが、歴史の罪人になることもありうる。武器を携行してこのような任務を執行することは私には不可能である。中央軍事委員会は私を軍長に任命することも、私の職を解くこともできる。私は辞職してもよい」。劉政治委員は直ちに徐勤先の誤った言論を厳しく批判し、まず任務を受領し伝達・配置するよう指示し、この任務は楊副主席が伝えたものであり鄧主席が批准したものであると明確に指摘した。その後、用事があって私は少し外に出たので、その後の状況は分からない。これは当時の私のメモと記憶に基づいて整理したものである。基本的にこのような状況であり、大きな食い違いはないはずである。1989年7月17日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した黄雲橋副参謀長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:黄雲橋副参謀長は以下を証明している。劉政治委員が貴殿に命令を下達した時、彼は在場していた。貴殿は「このような命令は国家が発布すべきであり、党の名義で発布するのは適切でない」と述べた。貴殿は執行できないと表明した。劉政治委員は貴殿の命令不執行の行為を厳しく批判した。これらの状況を彼は当時記録していた。黄雲橋副参謀長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:完全には一致しない。合っている意味もあれば、合っていない意味もある。

裁判長:どこが一致しないのか。

徐勤先:「国家の名義で発布すべき」とか「人民代表大会常務委員会で研究決定すべき」とか、これらの話はそのようには言っていない。

裁判長:他には。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:以下、北京軍区司令部作戦部部長・彭翠峰の二回の証言を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)調査記録、1990年1月5日、場所作戦部会議室。調査者:姜吉初、蒋継光、被調査者:彭翠峰

問:彭部長、軍区の周司令員、劉政治委員が軍事委員会による我が区部隊の戒厳任務執行命令を伝達した状況を話してください。

答:89年5月18日午前、周司令員と劉政治委員が三座門に行って軍事委員会が召集した緊急会議に参加した。当時は二人の首長だけが行き、他の職員は連れて行かなかった。

問:周司令員と劉政治委員が会議から戻った後、軍事委員会の命令をどのように伝達したか。

答:司令員と政治委員が戻った後、当日午後2時7分、本館3階首長会議室において留守中の首長を召集して伝達した。会議参加者は李来柱副司令員、鄒玉琪参謀長、黄雲橋副参謀長、後勤部徐效武部長等であり、私も参加した。

問:二人の首長が軍事委員会の命令を伝達した具体的内容を話してください。

答:私には記録がある。劉政治委員がまず軍事委員会緊急会議の精神を伝達し、彼は言った。「高自連が中央に彼らが合理的、愛国的、自発的であると認めるよう迫っている。我々がいくつかのスローガンを引き継いでもまだ駄目で、四・二六社説が誤りであると認め、高自連と工人自治連合会が合法であると認めるよう迫っている。今回ゴルバチョフが訪中した時に広場を清掃しようと準備していた。彼らがハンガーストライキをし、何度も彼らと話したが効果がなかった。一昨日の夜、赤十字会が出てきて、国際慣例では4日以上のハンガーストライキは医院に連れて行って治療できるとされ、当時彼らは署名した。しかし赤十字会が人を迎えに行くと、また人が見つからなくなった。彼らは民主を求めているのではなく、共産党を打倒しようとしており、まず小平、李鵬同志に向けられている。彼らは70歳以上は全員退くべきだと提起し、ゴルバチョフ訪中に大きな妨害となった。ゴに何か考えがあるかと聞いた者がいる。ゴはどの国にもある、モスクワにも将来あるかもしれないと言った。今、社会秩序は乱れており、我々は死者が出ることを恐れ、何度も彼らと対話・協議したが、彼らは受け入れない。昨日は百万人以上がデモした。この状況はこれ以上続けられない。一つは学生の要求に応じて譲歩する。譲歩しても彼らはまた騒ぐし、しかも四・二六社説は誰が書くよう命じたのかを追及している。社説を書くよう考えた者を追査し、彼らが合法であると認めようとしている。もし退いたら、我々はもっと受け身になる。このまま続けば、実際は第二次文化大革命がまた来ることになる。今は誰の話も聞かない。この案は駄目である。二つ目は強制手段を取り、公然と四・二六社説は正確であると表明する。高自連の活動は間違いなく誰かが指揮しており、広場にはしょっちゅう外国人が現れる。やはり精神汚染自由化のあの一套である。党内の一部幹部は胡耀邦の異動について思想的に納得していない。この間、四・二六社説は堅持できなかった。今見ると、戒厳しかない。鄧主席はすでに部隊の動員を批准した。部隊が来てから戒厳を宣布する。部隊は主に要点を守る、放送局、テレビ局、人民大会堂。戒厳令を執行する部隊は武器を携行する。5万人を派遣する。新兵は来ない、来るのに適さない者は来なくてよい。我々は発砲しない、死者を出さないよう努める。時間は少し長めに準備する。少なくとも三、五ヶ月。反抗する者がいても構わない。彼らは愛国的ではなく、権力を奪おうとしている。軍隊には威嚇の役割がある。配置計画を作れ。装甲輸送車、戦車も入れる。駐地後勤、政治工作などの各種保障を手配しろ」。劉政治委員が話し終わった後、周司令員が続けて言った。「劉政治委員は非常に詳しく話した。我々の前にあるのは退くことではない、我々はすでに最後まで退いている。彼らは今、一般的な駆け引きをしているのではない。だから我々は強硬にならなければならない。中央は首都北京に戒厳を実施することを決定した。このようにしなければ党と国家の利益を害する。だから戒厳が必要で、早く公布するよう努める。武警、公安、解放軍が共同で負担する。鄧小平主席の決定に基づき、軍事委員会は北京軍区から5万人を調達する。第38集団軍1万5千人、第65集団軍1万人、第63集団軍1万人、第27集団軍1万人、北京衛戍区警備第3師5千人、警備第1師は1千人を機動用に準備する。第24軍と軍区直属隊はまず準備し、暫く動かない。具体的任務は李鵬、喬石が進入の時間と順序を確定してから。早くするよう求められており、21日未明までに全部進入完了。これで戒厳令は21日朝に公布できる。いずれにしても機密保持をしっかりやれ。部隊は軽火器を携行、拳銃、短機関銃、少数の軽機関銃。弾丸:短機関銃50発、軽機関銃1基数、連単位で箱詰め携行、時が来たら配布。装甲車は2〜300両を準備、主に郊外に置き、状況を見て勤務任務を執行。服装は鉄帽、革靴、夏服、背嚢、洗面用品、炊事車を全部持って行く。部隊は全部トラックで輸送、部隊はまずいくつかの建物に住み、その後テントを張る。指揮問題:基地は西山、必要に応じて市内に指揮組を開設。急いで各単位に任務を伝達・配置せよ」。二人の首長が伝達した内容は基本的にこれらである。

問:第38集団軍を入京させて戒厳任務を執行させるのは、軍事委員会が決めたのか軍区が決めたのか。

答:軍事委員会が第38集団軍を入京させて戒厳任務を執行させると決めた。当時状況が緊急であったため、周、劉首長が直接任務を受けてきたのであり、文書命令はなかった。

1989年9月16日尋問記録。尋問者:呉学波、蒋継光、被尋問者:彭翠峰

問:今年5月18日午後、軍区首長が徐勤先に中央軍事委員会による第38集団軍派遣・任務執行命令を伝達した状況を話してください。法律の規定により、貴殿は如実に証言しなければならない。さもなければ法的責任を負う。

答:軍事委員会が命令を下した後、軍区常務委員は5月18日午後に各集団軍に伝達した。我々は元々徐が入院していることを知らず、第38集団軍に任務を受領するよう通知した。第38集団軍の唐副参謀長が徐は北京で入院中だと言った。王政治委員が来てもよいかと。私が李副司令員に伺いを立てると、李副司令員は徐軍長が来るのがよいと言った。そこで私は軍区総院に電話し、徐が軍区に任務を受領に来るよう車を派遣した。到着したのは15時50分頃であった。在場者は劉振華、李来柱、鄒玉琪、黄雲橋、私、戴金生、後勤部の徐部長および私の部の徐河南処長であった。最初に劉政治委員が軍事委員会の命令を伝達した。この時私は一度外に出たが、すぐに戻り、出入りを何度かした。劉政治委員は言った。「午前中、軍事委員会が会議を開き、鄧主席の指示を伝達した。断固たる措置を取り、5個集団軍を速やかに北京に来させて戒厳を実施する。第38集団軍は15,000人を出動させる」。劉政治委員がまだ話し終わらないうちに、徐勤先が話を挟んで言った。「政治委員、私には意見がある。このような重大事を軍事委員会が決定するのではなく、人民代表大会または国務院全体で討論すべきである」。劉政治委員は言った。「老徐、これは鄧主席が決定し、楊副主席が直接伝達したものだ。まだ信じないのか」。この時、劉政治委員の態度は非常に厳粛であった。劉がこのように数言言うと、徐は黙った。劉政治委員がまた軍事委員会の命令を伝達し続け、かなり長い時間が情勢の説明であった。徐勤先がまた話を挟んで言った。「前二回のように銃を持たないならまだよいが、部隊が完全武装し、装甲車まで連れてくるなら、私には理解できない」。劉政治委員は言った。「老徐、そういうことを言うな。私の話を聞いてくれ」。劉政治委員がまた第38集団軍の任務、駐防区域などの具体的事項を話した。ここまで話したところで、私はまた外に出て、衛戍区の何尚昆副司令員を迎えに行った。この時間帯は主に李副司令員が徐勤先に具体的配置をしていた。戻ってきた時、鄒参謀長が任務執行の具体的要求を話しており、言った。「老徐、軍事委員会の命令は執行しなければならない。まだ何か分からないことはあるか」。徐は「全部分かった」と言った。この時、私が首長に報告した。「衛戍区の何副司令員が来ました」。鄒参謀長が言った。「それでは、衛戍区の何副司令員が来たから、私が君を連れて行って第38集団軍に電話しよう。任務を伝達しろ」。電話の時は私は在場せず、鄒参謀長が彼を連れて行った。電話が終わった後、徐勤先は車で85号棟に行った。

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した彭翠峰部長の二回の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:彭翠峰部長は以下を証明している。北京の一部地区への戒厳は党中央が決定したものであり、第38集団軍を入京させて戒厳任務を執行させることは中央軍事委員会の命令である。軍区が貴殿に軍事委員会の命令を下達した後、貴殿は執行を拒否した。彭翠峰部長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:情節上やはりいくつか問題がある。途中で首長たちが話している時には全く話を挟まず、全部話し終わり、私が問題を質問し終わってから、最後に意見を述べた。この意見を述べる過程で、相互に何かやり取りがあった。私が少し話し、首長が少し話す。劉政治委員が話している時、李副司令員が話している時、鄒参謀長が話している時、全く話を挟んでいない。だからそれらの情節上は彼にいくつか問題がある。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:北京軍区作戦部副部長・戴金生の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)証人尋問記録。1989年9月20日午後、場所:北京軍区機関本館351号室、尋問者:呉暁波、記録者:蒋継光、被尋問者:戴金生(軍区作戦部副部長)

問:今日は徐勤先に関する状況を話してもらいたい。

答:すでにかなり時間が経っており、一部の状況は印象が薄れている。徐は当時総院に入院中であった。私は電話で徐に、午後3時頃に軍区に来るよう伝えた。徐は車がないと言った。私はまた医院に車を手配してもらうよう探せと言った。私は張金柱にも電話し、徐に車を手配するよう言った。結局、徐はやはり自分の車で来た。徐が来た後、劉政治委員、李副司令員が命令を伝達した。徐は最初何も言わなかったが、命令を聞いた後は気分が比較的重くなり、言った。「私には意見がある」。続いて彼は言った。「このような重大事は国務院、全国人民代表大会が公布すべきである。今また武器を持ち、装甲車を駆っている。北京にはこんなに多くの人が押し寄せている。一体正しいのか。歴史の検証に耐えなければならない。今我々はまだ一時的によく分からないが、私はこの任務を執行できない」。彼はさらに言った。「軍事委員会は私を軍長に任命することも私を解任することもできる。私は辞職してもよい」。徐がこれらの話をした後、劉政治委員および在場の指導者は当時数十秒間黙って何も言わなかった。徐がこのような話をするとは思わなかった。劉政治委員は言った。「これは軍事委員会の命令だ。楊副主席が伝達し、鄧主席が批准したものだ」。首長たちが働きかけをした後、記憶では徐は後で「伝達はできるが、執行には参加しない。まだ入院しなければならない」と言った。この時、鄒参謀長が言った。「老戴、徐軍長を連れて行って電話させてくれ」。私は作戦部第二当直室で第38集団軍への電話をつなぎ、徐を部屋の中に入らせて第38集団軍に電話させた。私は外に出た。当時、鄒参謀長が私と一緒に行った。

問:徐勤先には記録があったか。

答:徐には記録があった。

問:ノートに記録したのか、紙に記録したのか。

答:私の印象では紙2枚だった。私が覚えているのは、徐は主にこのいくつかの言葉を言い、しかも何度も繰り返し言っていた。様子から見て、彼は気持ちが落ち込み、納得できなかったようだ。

問:電話が終わった後、彼はどこへ行ったか。

答:私の記憶では、ある参謀に付き添わせて85号棟に行かせた。誰だったかはもう覚えていない。

問:他に何かあるか。

答:彼が軍の王政治委員への電話で何を言ったかは聞いていない。徐の話に対して、我々は皆非常に突然だと感じた。今私が最も印象深いのは、徐が一連の話をした後、会場がかなり長い間静まり返り、二人の首長も呆然としていた。しばらくして、劉政治委員が話し始めた。

1989年9月20日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した戴金生副部長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:戴金生副部長は以下を証明している。1989年5月18日、彼が電話で貴殿に軍区に任務を受領しに来るよう通知した。軍区首長が軍事委員会の命令を下達した後、貴殿は当場で執行を拒否した。その後、彼はまた貴殿を軍区作戦部第二当直室に連れて行き、第38集団軍に電話させ、軍事委員会の命令を伝達させた。戴金生副部長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:いくつかの細部はよく覚えていない。彼が私を連れて行ったという記憶はないが、もちろん彼が私を連れて行って電話させたのかもしれない。また総院では、彼が私に電話したのではなく、私は唐明洪の電話を受けた。ただし途中で私は軍区作戦部に電話して車を探してもらうよう頼んだ。この時が私が彼に車を頼んだあの時なのか。これはどうでもよいことだが、彼が私にあそこで会議に来るよう通知したのではなく、軍の方から私にあそこで会議に来るよう通知があった。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:第38集団軍政治委員・王福義の証言を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)5月18日午後5時過ぎ、私が軍区作戦部の彭部長から北京進入・戒厳任務執行の予備命令の伝達を受けた後、徐勤先が軍区から私に電話をかけてきて、楊副主席の指示と軍区の命令を伝達した。伝達し終わった後、彼は「私はこのやり方に同意しない、私はこの命令を執行できない、私は指揮できなくなった。誰が指揮するかは、君たちで決めてくれ」と言った。私は直ちに軍常務委員会の召集を通知し、軍事委員会・軍区の指示と命令をそのまま伝達し、併せて徐勤先がこの任務執行に対してとった態度を述べた。皆は徐の問題について討論し、彼に対する工作を行い、必ず命令を執行させ、この重大な軍事行動に参加させることを決定した。会議後、私は徐に電話をかけ、軍常務委員会の態度を伝え、明確に彼に言った:「君個人に意見があるなら、上級に提出してもよいが、命令は必ず執行しなければならない。これは決して個人の問題ではなく、全局に関わる大事であり、第38軍という集団に影響を与える。君が確かに病気で、すべての活動に参加するのが困難なら、大きな活動には参加し、具体的な仕事は我々がやる」。彼は言った:「軍常務委員会には感謝するが、私はこのやり方に同意できない、この任務を執行できない」。私が繰り返し参加を求めた後、彼の調子・態度はいくらか和らいだ。19日未明1時半過ぎ、軍常務委員会全体会議・軍党委員会全体会議が終了した後、私は呉副政治委員・張副軍長とこの問題をどう処理するか研究した。我々は皆、このような大きな行動に軍長が参加しないのは影響が大きすぎる、引き続き工作を行い、彼を活動に参加させるよう促さなければならないと感じた。当時、呉副政治委員が北京軍区総医院に行って彼と話をすることを決定した。19日午後2時頃、呉副政治委員が戻って来て私に言った:「彼と話をした時、最初は態度が悪かったが、深く話し合った後、軍常務委員会の意見に同意すると表明した。ただし彼は、自分は既に軍区首長にあれこれ言ってしまった、軍区が自分の参加に同意しなかったらどうするか、と言った」。呉は「軍区が同意しなければそれまでだ。もし同意すれば、部隊が北京に到着後、直接軍指揮所に来い」と言った。彼はまた三点の意見を述べた:一つは動員をしっかり行い、皆に北京進入は首都の社会秩序維持のためであり、学生弾圧ではないと説明すること。二つ目は武器弾薬をしっかり管理し、紛失・盗難・強奪を防ぐこと。三つ目は車両事故の発生を防ぎ、万一人を轢き殺したら、故意に轢いたと言われるからだ。19日午前、軍区の劉政治委員から既に電話があり、徐勤先との連絡を断ち、彼に会いに行くな、彼を部隊に来させるなとの指示があったので、私は呉副政治委員に徐に電話させ、個人の名義で劉政治委員の指示の意味を伝えさせ、彼が部隊に来るのを阻止した。1989年7月13日。

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した王福義政治委員の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:王福義政治委員は以下を証明している。1989年5月18日午後5時頃、貴殿は彼に電話をかけ、軍事委員会が第38集団軍を北京に調動し戒厳任務を執行させる命令を伝達し、電話の中でこの命令を執行しないと表明した。貴殿は「私はこのやり方に同意しない、私はこの命令を執行できない、私は指揮できなくなった、誰が指揮するかは君たちで決めてくれ」と言った。その夜、彼は貴殿に電話をかけ、軍党委員会常務委員会を代表して工作を行ったが、貴殿は依然として命令を執行しないと表明した。翌日、軍はさらに呉雲中副政治委員を北京に派遣し、貴殿への工作を続けた。王福義政治委員の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:大部分の意味は合っているが、一部の言葉はそのようには言っていない。

裁判長:どの言葉か。

徐勤先:「私はこのやり方に同意しない、私は指揮できなくなった、君たちは別の人を探してくれ」、これらの言葉は当時そのようには言っていないようだ。また途中で、呉仁宗同志が来た後、私もこの意味を話した。私は主に首長が理解してくれるかどうかだと言った。既にあれほどのことを言ってしまって、また参加するのか、と。意味に食い違いがある。

裁判官・周心華:では貴殿は王福義に何と言ったのか。貴殿はこの王福義の証言のこの部分、つまり電話を終えた後「私はこのやり方に同意しない、この任務を執行できない、指揮できなくなった。誰が指揮するかは君たちで決めてくれ」と言ったのが正しくないと言うが、貴殿は当時何と言ったのか。

徐勤先:私は当時、電話ではそれほど多くを話す時間もなく、話し終わった後、私は「君たちで研究して執行してくれ」と言った。私は「この件について私は少し意見がある、私の意見は既に軍区に話した、私はこのやり方にあまり同意しない」と言った。私は主に彼らに研究して執行してほしいと頼んだのだ。これを言い終わった後、「君たちまた別の人を探してくれ」とか、この件は誰に頼むのか?メンバーは皆いるだろう?この言葉は言っていない。常務委員は皆いる、常務委員でよく研究して執行してくれ、と。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:よし、一つ質問する。徐勤先、先ほど朗読した王政治委員の証言の中で、呉副政治委員が総医院に貴殿を訪ねた状況が述べられていたが、当時呉副政治委員が貴殿に工作を行った時、貴殿は何か意思表示をしたか、何か話したか。

徐勤先:彼の当時の意図は、前の日の夜のことの続きだったからで、前の日の夜、王福義同志が私に話したあの話について、最初は朝令暮改はできない、既に話してしまった、また変えるのは少し無理があるだろうと言った。しかしこの無理というのも完全に固まったわけではなかった。翌日呉仁中が来た後、やはり参加してくれ、軍の意見では、君が参加すれば大局に有利だ、全局に有利だ、任務完成に有利だと言った。私はこの件について、既に軍事委員会のあれほど多くの首長に話してしまった、また行ったり来たりしたら、軍事委員会の首長は理解してくれるだろうかと言った。最後に彼がまた繰り返し参加した方が有利だと言ったので、私は最後に「ではこのように参加しよう」と言い、その後約束して、翌日つまり未明に、私が直接軍指揮所に行くことになった。途中の王・呉とのやり取りはだいたいこのような経過だった。

弁護人:つまり、最後には貴殿は既に……(裁判長に制止される)

裁判長:弁護人は注意してほしい、貴殿は王福義政治委員の証言について何か意見はあるか。

弁護人:よし、質問は終わった。

裁判長:次に証拠を提示する:王福義政治委員が徐勤先の電話を受けた時の記録メモのコピー。弁護人は見てよい。被告人・徐勤先、今提示した記録メモのコピーの最後に墨で塗りつぶした痕跡が一行あるが、見えたか。

徐勤先:見えた。

裁判長:次に王福義政治委員の電話記録メモ塗りつぶし痕跡についての説明を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)これは今年5月18日に軍区作戦部の彭部長・徐勤先から私にかかってきた電話の記録である。最後に記した数文字は徐勤先が言ったことで、意味は「私はこのやり方に同意しない、私はこの任務を執行できない、指揮できない、誰が指揮するかは君たちで決めてくれ」ということである。私が秘書に整理してファイルに入れるよう渡した時、当時は外部に漏れて社会の悪人に利用されることを恐れ、また部隊の士気に影響することも心配して、墨ペンで塗りつぶした。89年7月28日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した王福義政治委員の説明は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:王福義政治委員は以下を証明している。この電話記録メモの消された最後の一行は、まさに貴殿が彼に電話した時に命令を執行しないと表明した言葉である。王福義政治委員のこの説明について何か意見はあるか。

徐勤先:少し食い違いがある。私が言ったのは彼が話すほどではなかったが、私が参加しないという意味は彼に言った、異なる意見があるということも話した。

裁判長:塗りつぶした部分はつまり執行しないという意思を表した言葉だけということか。

徐勤先:この中で、一つは執行・指揮という言葉はほとんど出てこない、私は一般的に話していたのは、当時の私の考えは参加しないということで、大半は「参加しない」「参加したい」という言葉を使っていた。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:第38集団軍副政治委員・呉潤中の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)証人尋問調書、日時:1989年9月15日午前、場所:北京市北池子44号第38集団軍指揮所、

尋問者:呉学勃、被尋問者:第38集団軍副政治委員・呉潤忠。

問:5月19日の徐勤先の状況について話してほしい。

答:5月18日夜、王政治委員が常務委員会を召集し、軍事委員会の命令を伝達し、徐勤先はこの任務を理解せず、部隊を率いて任務を執行できない、誰が指揮するかは軍で決めてくれと言ったと述べた。王政治委員が伝達し終わった後、常務委員たちは非常に憤慨し、徐を罵倒し、徐は必ず第38軍に服従しなければならない、政治委員がすぐに徐に電話して参加させろと言った。常務委員会がまだ終わらないうちに、王政治委員が電話をかけに行ったが、連絡がつかなかった。会議を続け、具体的な配置を討論した。続いて王政治委員がまた電話をかけ、我々は会議室で待っていた。王政治委員が電話を終えて、徐はまだ考えを変えていないが、考えてみると表明したと言った。皆が、それではダメだ、彼は必ず参加しなければならないと言った。この時、劉振華政治委員から電話があり、徐勤先は任務を伝達したか、態度を表明したかと尋ねてきた。早朝、王政治委員がまた徐に電話をかけた、これが三度目の電話で、王が電話を終えた後、我々に徐は参加を考えてみると表明したと言った。続いて、王福義政治委員が私を呼び、徐勤先をどう処理するかと言った。私は張副軍長を呼ぼうと言った。我々三人で簡単に研究し、私が軍常務委員会を代表して北京に行き徐への工作を行う、何としても彼を参加させる、引きずってでも連れ出すと決めた。翌日19日、私は北京に来て、11時近くに総医院に着いた。私はまず彼の病状を尋ね、続いて本題に入り、常務委員会の決定を伝え、「常務委員会は君の態度に非常に憤慨している、これは大変な誤りだ」と言った。彼は「命令を執行しないのは誤りだ、私は分かっている」と言った。昼食後、私はまた「私が来た任務は軍常務委員会の決定を伝えることだ、君はこの行動に必ず参加しなければならない」と言った。彼は「では分かった、参加してもよい。しかし私はもう話を出してしまった、軍区はまだ私を信任してくれるだろうか」と表明した。私は「軍区は君の参加を許さないとは言っていない」と言った。彼は「では分かった」と言った。私は彼に退院して私と一緒に行こうと提案したが、彼は「戻らない、北京で待つ」と言った。私はまた工兵処で部隊を待つことを提案したが、彼は「その必要はない」と言った。私はまた総参通信兵軍部(軍前方指揮所)に行くことを提案したが、彼は「安心してくれ、参加する、前方指揮所の電話は知っている、自分で探す」と言った。続いて、彼は部隊の任務執行について三点述べた:一つは動員をしっかり行い思想を統一し任務を説明すること。二つ目は武器・弾薬を個人に渡さないこと。三つ目は部隊の前進をしっかり組織し安全を確保すること。このように私は4時20分頃保定に戻り、王政治委員に報告した。王政治委員は「終わりだ、軍区から既に彼の参加を許さない、彼との連絡を断てとの通知があった、彼が参加するのは部隊への干渉になる」と言った。それから王政治委員は私に徐勤先に電話するよう言い、私は徐に電話しようとしたが、学生に阻まれてずっとかけられなかった。20日午前、私は会議をしながら北京に電話をかけ続けた。午前10時頃、やっと繋がり、軍区が彼の参加を許さない、軍区総医院で療養し、部隊に行くなという通知を伝えた。徐勤先は「分かった」と言った。89年9月15日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した呉潤忠副政治委員の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:呉潤忠副政治委員は以下を証明している。1989年5月19日、貴殿が軍事委員会の命令執行を拒否したため、彼は軍党委員会の指示を受けて北京に来て貴殿への工作を行った。呉潤忠副政治委員の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:おおむね合っているが、具体的な時間はあまりはっきり覚えていない。朝食後だったようだ。また部隊に行くようにということについては、言われた記憶がない。当時の状況では、体調も確かに良くなかったし、周りに誰もいなかったので、行けと言われても行けなかった。だから彼がこのことを言ったとは記憶していない。とにかく軍指揮所に行くことは確かで、自分で方法を探す、軍指揮所は知っている、明日の朝行くと言った。終わり。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:第38集団軍副軍長・劉丕訓の証言を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)5月18日午後、王政治委員が我々を事務室に呼んで会議を開いた。午後4時過ぎ、徐が王政治委員に電話をかけてきて、時間が長く、最後に王政治委員は電話で「老徐、慎重にしてくれ、よく考えてくれ」と言った。私は当時何か問題があると感じた。王政治委員はその後の会議で、徐勤先は任務執行に意見があり、参加したくないと言っていると述べた。後に王政治委員と張副軍長・呉副政治委員が相談し、呉を行かせて徐への工作を行うことにした。翌日、我々は計画通り車両・武器・弾薬を準備し、部隊が前進したが、何の影響も受けなかった。軍前方指揮所は予定より3時間早く北京に到着した。我々が着いた翌日、総政治部の楊主任が来て、徐が任務を執行しないのは違法行為だと言い、非常に厳しく話した。1989年8月31日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した劉丕訓副軍長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:劉丕訓副軍長は以下を証明している。1989年5月18日午後、王福義政治委員は軍党委員会常務委員会で貴殿が命令を執行しないと述べ、呉潤忠副政治委員を北京に派遣して貴殿への工作を行うことを決定した。劉丕訓の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:次に北京軍区作戦部の馬景然処長の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)5月18日午後夕食前、具体的な時間は覚えていないが、本棟のエレベーター前で鄒玉琪参謀長に会った。彼は私に徐勤先(第38軍元軍長)を85号棟に送り、早めに行って休ませるよう言った。参謀長の指示に従い85号棟2階南側の部屋に送ったが、具体的な部屋番号は当時注意していなかった。その後、徐の運転手に事務棟まで送ってもらった。その後の状況はあまり分からない。馬景然 1990年1月9日

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した馬景然処長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:馬景然処長は以下を証明している。1989年5月18日夕食前、彼は貴殿を軍区機関本棟から軍区85号棟招待所に送って休ませた。馬景然処長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:次に第38集団軍司令部管理処自動車班専業軍曹・徐勤先の運転手である平発奎の証言を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)5月18日午前、私は車で軍長の家族を総院に迎えに行き、午前11時に軍長の家族を家に送り、范所長が車に同乗して豊台駅まで行った。昼は軍長の家で食事をし、午後3時頃、私は車で総院に戻った。ちょうど軍長が車を探して軍区の会議に行こうとしていたところで、私と軍長は午後4時頃軍区本棟に着いた。軍長は上階に会議に行き、私は車で待っていた。6時頃、軍長と軍区機関の人が一緒に出てきて、軍区85号棟招待所に行って夕食を取り、軍長を213号室に案内した。食後、私は軍区機関の人を本棟まで送った。軍長は「ニュースを見終わったら出発しよう」と言った。7時40分、私と軍長は長安街を通って車で総院に戻った。1989年6月2日

裁判長:今朗読した運転手・平発奎の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:運転手・平発奎は以下を証明できる。1989年5月18日午後、彼は車で貴殿を軍区の会議に送り、夕方6時頃貴殿を85号棟招待所213号室に送り、夜7時40分にまた貴殿を軍区総医院に送り返した。運転手・平発奎の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:検察官は被告人・徐勤先の戒厳令違反の事実について、被告人に直接質問する必要があるか、または本法廷に審問を求める事項はあるか。

検察官:徐勤先、二つ質問する。第一に、5月18日、貴殿は軍区指導者に戒厳任務への参加を拒否すると表明したのは事実か。

徐勤先:そうである。

検察官:第二に、命令伝達時に、貴殿はこの任務を執行したくないと言い、それらの言葉を発し、軍区の当時任務伝達に参加した指導者から批判された言葉について、記録はあるか。

徐勤先:ない。

検察官:では今、貴殿が繰り返し言う何人かの証人の証言が貴殿が当時言ったことと一致しないというのは、何を根拠にしているのか。記憶に頼っているのか。

徐勤先:何に頼っているか。記憶に頼っているのか。

検察官:記憶に頼っているのか、何を根拠にしているのか。貴殿は当時記録していないのに、今、何人かの証人の証言が貴殿が当時言ったことと一致しないと言うが、何を根拠にしているのか。

徐勤先:いくつかのことは時間が経って覚えていない。しかしいくつかのことは考えたか考えていないか、いくつかのことは根本的に考えていなければ言い出すはずがない。だから今、この証言の中に、根本的に考えたこともないことが多く出てくるが、証言の中にはある。これは私個人としてはどうしようもない。私は確かにそのようには言っていない、そのようには話していないからだ。

検察官:それは貴殿自身が今そう思っているということか。

徐勤先:そうである。

検察官:質問は終わった。

裁判長:弁護人は被告人・徐勤先の戒厳令違反の事実について、被告人に直接質問する必要があるか、または本法廷に審問を求める事項はあるか。

弁護人:一つの問題を話す。徐勤先、1989年5月18日以前に貴殿は部隊を率いて北京に入り任務を執行したことはあるか。

徐勤先:18日以前に執行したことがある。4月から始まり、4月22日・4月27日・5月4日の三回である。

弁護人:執行状況はどうだったか。

徐勤先:いずれも問題なく、任務を完成した。群衆が軍用車を取り囲んだが、大きな問題は発生しなかった。

弁護人:よし、質問は終わった。

裁判長:被告人・徐勤先、第38集団軍を北京に調動して戒厳任務を執行させることは中央軍事委員会の命令である。軍区が貴殿に軍事委員会の命令を下達した後、貴殿は第38集団軍軍長として、なぜ執行しなかったのか。

徐勤先:5月18日の今回の任務執行は、これで4回目の任務になる。命令下達としては3回目である。1回目は4月22日、2回目は4月27日、4月27日以後は戻っていない、途中5月4日にもう一度あった。今回の命令下達は3回目で、任務執行の回数としては4回目となる。これ以前は、任務執行のために来たが、1回目はあまり問題なかった。胡耀邦逝世追悼大会後の霊柩を送る際、見物する群衆がかなり多く、霊柩車が妨害されずに通過するのを保証し、公安・武警・そして群衆と共同で秩序を維持した。2回目は4月27日午後、突然迅速に部隊を北京に調動して任務を執行させ、秩序を維持し、公安武警を補助して重要な目標を警護した。この任務執行の過程で、群衆が軍用車を取り囲み阻止するという状況が発生した。軍のこの行動を理解しない・支持しないと言われ、その夜は帰らなかった。北京に留まり、五一・五四を過ぎるまで滞在した。部隊が来た時は食料を持っていなかった。元々は当日任務を完成して当日帰還すると思っていたからである。食料購入の際、商店・群衆は非協力的な態度をとった:一つは売らない、もう一つは高値をつける。要するに、遭遇した状況は、群衆が軍をあまり支持しない・理解しない・不満があるということだった。軍に唾を吐きかける者もいて、「お前たちは前線に行って戦わないで、ここに何しに来たのか」と言った。このようなことが発生した。また、この期間中、中央指導同志も、もちろんメディアも含めて、メディアは言うまでもないが、中央指導同志もこの事件解決についていくつかの重要な指示を出していた。全体的な意味は、5月4日以後、この事件は終わっていないが、今後は民主・法治の軌道に乗せて解決するよう努力するということだった。部隊の前回までの任務執行については、刀も使わず、銃も使わず、流血もなく、衝突もなく、首長たちも比較的満足していた。だから当時の期望は、やはり中央が努力して、もう少し工作をしてほしいということで、しかも4月末の工作の状況を見ると、明らかな効果があった。4月27日のデモ行進の後、28・29日に、国務院報道官の袁木が対話を一度行った。社会全体への影響はかなり大きかった。5月4日の任務執行の過程で、デモ隊はそれほど大きくなく、呼応する人や参加する人もそれほど多くなかった。私は西山から行く時、街中を通って見てみたが、この情勢なら、工作をすれば問題は解決できると思った。しかしどういう訳か、5月4日以後から5月18日までのこの期間、工作が停滞しているようだった。もちろん今では中間に多くの複雑な状況があったことを知っている。その中には趙紫陽が動乱を支持して党を分裂させたことも含まれる。だから私は、やるべき工作がなされていない、あるいは不十分だ、力を使い切っていないと感じた。今この事件がこれほど深刻になり、すぐに武力というやり方で解決しようとしている、下手をすれば衝突を引き起こし、流血事件を引き起こす。だからこの件について自分には意見があり、見解があり、やはり上に提出したいと思った。この事件、我々の建国以来発生したこのような事件を、できるだけ上手く処理し、歴史上の問題を残さないようにしたかった。私の基本的な考えはこうだった。この問題が穏当に解決され、衝突が起きず、流血事件が起きないことを望んでいた。というのも、元々中央指導同志もこういう準備をしろと言っていたが、努力して、できるだけ衝突せず・流血しないよう避けろと言っていた。しかし後に採られた行動は、自分が見た状況から、特に4月下旬に接した状況から見て、武器を持ってきた、戦車・装甲車・軽重機関銃を持ってきた。工作が現在このような程度まで進んでいる時、群衆の不満は大きく、衝突は避けられない。一度衝突すれば、銃を持ち武器を持っているのだから、流血は避けられない。しかも5月4日以前は部隊は徒手だったから、大きな流血事件は起きなかった。衝突して工作をすれば、大きな流血事件は起きなかった。今回は武器装備を持ってきたのだから、流血衝突は避けられないように感じた。思想的な懸念がかなり多く、主にこの問題だった。だから自分は思想的に納得できず、参加したくないと表明した。根源は基本的にここにある。その他については、後で話す。他に何を答える必要があるか。

裁判長:軍区首長が貴殿に第38軍を北京に調動して戒厳任務を執行させる中央軍事委員会の命令を下達した後、貴殿は集団軍の軍長として、いったいなぜこの命令を執行しなかったのか。貴殿が今言った考慮以外に、他に何か理由があるのか、あるいは根本的な理由は何か。

徐勤先:裁判長がおっしゃったこの意味、私はまだよく聞き取れなかった。もう一度おっしゃっていただけるか。

裁判長:(質問を繰り返す)直接この質問に答えてほしい。

徐勤先:思想的に納得できなかったから、部隊として・組織として言えば執行するが、個人として言えば、私はこの問題について懸念がかなり多いと感じたので、参加したくないと表明した。

裁判長:当時はそのように考えたのか。

徐勤先:当時は主にそういう考えだった。どうすればいいのかと感じた。この意見を提出する者として、私には意見がある、異なる意見がある、この意見を言った、言っても誰も採用しなかった、これらの意見は採用されなかった、結果はおそらくこのままだろう、私にも他に方法がない。だから個人として言えば、思想的に納得できなかった。観念上から言えば、一つの組織として・我々の党が指導するこの軍隊として、断固として任務を執行すべきである。個人として言えば、だから私は参加したくなかった。思想的に不満があり、このように問題を処理するのは適切ではないように感じた。しかもこれ以前に多くの指導同志が表明していた、民主・法治の軌道に乗せて解決する準備をすると。ある者は監察部門を通じてと言い、ある者はこの会議やあの会議を通じてと言った。この件もそうは言わなかった、あるいはあの時期に言った時、自分は部隊で仕事をしていたか病気だったかで、自分は知らなかった、とにかく自分は見ていなかった、あるいは見たのが不十分で、この工作が停滞していた。結果として今、こんな大きな問題が膨らんで、一気にこのやり方で解決し、また工作をする時間がない、これでは衝突するではないか。大事が起きる。こういう深刻な思想的懸念があったからだ。

裁判長:軍人として言えば、命令に服従するのは天職であり、軍人の職責から言えば、下級は上級の命令を断固として執行すべきである。貴殿は集団軍の軍長として、命令に意見があれば提出する、では執行についてはどうすべきか。分かるか。どうすべきか。上級は貴殿の意見を採用しなかった、貴殿は軍長としてどうすべきか。

徐勤先:この問題については、党規約から、党内生活準則から、我々の軍隊のこの規律から、すべて一切の行動は指揮に従い、上級の命令に断固として服従し執行すべきである!しかし当時のあの状況では、時間も比較的短く、あれほど短い時間でこれほど多くの情報を得て、思想的反応をした。もちろん一部の考えはこれ以前からあった、例えばこの問題がどのように解決されることを望むか、この事件は終わっていないので、4月中旬から5月中旬まで約一ヶ月この事件は終わっていなかった、いくつかの考えがあった。しかしこの会議では、当時思想的に言えば、それほど冷静ではなく、考慮の着眼点は主に党内生活準則・党規約から、この角度からの考慮が多かった。我々は今、二重であり、一人の党員幹部として党規約を遵守し、党内生活準則を遵守しなければならず、また軍規に服従し命令に服従し指揮に従わなければならない。しかし当時、自分はあちらの側面を多く考えた。党規約として党内生活準則として、いずれも服従を前提として意見を提出でき、中央まで保留できると強調している。また、執行すれば深刻な結果を生むという状況は除外されると述べている箇所もある。だから当時自分は考えた、このまま執行すれば深刻な結果が出ないわけがない。だからこういう考えが自分の頭の中にも反映され、自分に誤った考え・誤った態度を生じさせ、いくつかの誤った言葉を発し、最後にこのような結果が出た。

裁判長:命令が下達された後、貴殿は多くのことを言った。貴殿の当時の主導的な思想はどういう思想だったのか。

徐勤先:主導的な思想は、私は当時主に政治的方法で解決することを望んでいた。政治的方法で解決できなければ、途中のこの証言には全く出ていないが、実際私は言及した、部隊を北京近郊に調動し、威圧を保持すると。つまり今この事件は処理しにくいから、部隊を近郊に調動し、強大な武力を後ろ盾にして、さらに政治的方法で解決を試みる。それでも解決できなければ、その後でまた次のステップに進めばよい。しかしこの言葉は今、私しか言っておらず、証人証言にはどれもこれがない。

裁判長:では、貴殿の意味は当時のこの決定は正しくなかったということか、そういう意味か。

徐勤先:この件についてはまだ疑問があった。このようにするのは果たして正しいのか。このようにするのは適切なのか。だからそうでなければ、私は中央政治局・国務院・中央軍事委員会がよく討論して、いったいどうするか、どうなっているのかと言った。それは明らかにこの件に考えがあった、違うか。このような決定は適切なのか。だから決定の科学化と民主化の問題を提起した、科学的民主的決定と言っているではないか。だからまたどうしろこうしろと建議したが、この建議は余計だった。

裁判官・馮兆山:貴殿が軍区で任務を受領した時、劉振華政治委員は既に現在の情勢を貴殿に非常に明確に話した。つまり貴殿が考えたこれらの問題は、指導者が既に貴殿に非常に明確に話したのである。しかも中央・中央軍事委員会が当時の情勢に基づいてこのような英明な決定を下し、中央軍事委員会がこのような命令を下した。貴殿が当時第38集団軍軍長を務めていた者として、この問題をどう見るべきか。それとも個人として意見を提出する時か。つまり執行するか執行しないかの問題で、もし当時の情勢を貴殿に説明していなければ、どう考えてもよい。党中央・中央軍事委員会は既に情勢を非常に明確に述べ、貴殿に非常に明確に話し、しかも決定も下し、命令も下した。貴殿は第38軍軍長として、どうすべきか。意見を提出する時なのか、執行の問題なのか、疑問の問題なのか、いったい反対の問題なのか。この問題を法廷で我々に説明してほしい。

徐勤先:劉政治委員が状況を説明し伝達した時、上級の会議の状況を伝達した時、既にいくつかの状況を話していた。この状況について上級が全く説明していなかったわけではなく、上級は既にいくつかの状況を説明していた。しかし自分の頭の中には慣性的なものがあった。軍区読書クラスは5月11日に終了した。5月11日以前は、この件は基本的に終わりかけていた、もう少し工作をすれば終わりに近づいていた。ところが途中で部隊で数日仕事をしていたら、ごたごたして、また起き上がった。もちろん起き上がった背景は知らなかった。起き上がった後、情勢を観察しても、強力な人物が出てきて工作をしたり、講話を発表したり、さらに何かを発表したりする様子がなかった。もちろん今では知っている、中央内部に状況があったから、誰も出てきて講話できなかったのだ。しかし当時の状況から見れば、強力な人物が出てきてさらに工作を進める様子がなかった。4月末、国務院報道官の袁木が出てきて一度工作をした、それで終わった。これでは問題があると感じた。だからこの上級が伝達したことについて、自分は信じたが、またこの工作がまだ不十分だと見た。今、善人と悪人がまだ分かれていない、群衆の不満がまだ大きい、このような状況でこのやり方を採る、下手をすれば問題が起きると感じた。

裁判長:被告人は注意してほしい、それ以上余計なことを言わないで、主に先ほど提出された質問に答えてほしい。

裁判官・馮兆山:つまり貴殿は党中央のこの決定・軍事委員会の命令に対して、当時どういう態度だったのか。貴殿は先ほど疑問の態度だと言ったが、疑問の態度以外に、他に何か態度はあるか。一つは貴殿が考えたこと、もう一つは貴殿の行動上表れた問題である。

徐勤先:主に疑問の態度であった。このようにするのは適切かどうか疑問に思った。

裁判官・馮兆山:疑問を持った後で貴殿がこの命令を執行しなかったのは、何と言うのか。

徐勤先:私はいくつかの意見・いくつかの建議を提出した。いくつかの建議は採用されなかった、伝達した、伝達後自分は参加したくないと表明した、その後軍の指導同志が私に工作を行い説得して、思想がいくらか変化したが、既に遅かった。

裁判長:貴殿は軍事委員会の命令に対して、先ほど疑問だと言ったが、軍事委員会の命令の何を疑問に思ったのか。

徐勤先:主にこのやり方でこの事件を解決することが、当時適切かどうかということである。

裁判長:このやり方を採ることが適切かどうか疑問だったということは、この決定が正しいかどうか疑問だったということか。

徐勤先:この果断な措置に対して、どう認識するかの問題である。当時、中央・中央軍事委員会がこのような果断な措置を採ってこの問題を解決すると決定した。私がこれに考えがあるなら、それは当然この果断な措置に疑問があるということである。

裁判長:その正しさを疑問に思ったのか。

徐勤先:それは当然正しさを疑問に思ったのであり、疑問に思うとはその正しさを疑問に思うことではないか。このようにするのが適切かどうか疑問に思う、それは当然その正しさに考えがあるということである。

裁判長:疑問以外に、他に何か意味はあったか。

徐勤先:他に意味はない。

裁判長:貴殿が疑問を持つのは、執行において・行動において不断固として表れることはあり得る。しかし貴殿の行為は、最後には軍事委員会の命令執行を完全に拒否した。これは単なる疑問か。

徐勤先:当時私個人としては、当時の考えでは、自分が完全に拒否したとは感じていなかった。部隊全体としては、断固として執行する。しかし自分は一人の指揮官として、参加したくなくなった。

裁判長:先ほど既に提起された、貴殿は疑問なのか反対なのかという問題だ。

徐勤先:主に疑問である。

裁判長:反対の問題はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:主に疑問か。

徐勤先:主に疑問である。

裁判官・馮兆山:貴殿は思想上は疑問として表れた、行動上は何という意味を表したのか。

徐勤先:行動上表したのは私が参加したくないということである。

裁判官・馮兆山:「上は私を軍長に任命できる、また私を軍長から解任もできる」これは何という意味か。

徐勤先:これらは首長たちとの会話の中で言ったことであり、例えば首長が一言出てきた、これはどう言えばいいか。こういう形で言い出されたものであり、一部の証言の中で言われているような、全部私が言ったというのとは、当時の状況と合わない。私が一言言い、首長が一言言い、首長が時々問題を提起して、こう一言言う、私はどう答えるか。時には私は黙り、時には一言言い出す。この言葉は、こういう状況から出てきたものである。

裁判官・馮兆山:この言葉は貴殿が命令を執行しないという意思表示ではないか。

徐勤先:この意思表示は、当時はその角度から提起したのではない。

裁判官:被告人・徐勤先、貴殿は中央軍事委員会の命令に対して、いったい疑問なのか反対なのか。この問題は主に貴殿の行為を見るべきである。被告人・徐勤先、貴殿の戒厳令違反の行為には、どのような危害結果があるか、これを知っているか。

徐勤先:19日、18日夜から19日にかけて、王福義と呉潤忠同志が私に話した時、私はこの問題を繰り返し考えた。私は考えた、このような大きな任務を執行するにあたり、例えば全局に有利という観点から言えば、部隊としては執行に参加する、軍長としては参加しないというのは影響が良くない。だからこれには確かに問題がある、だからこのように考えた時、この観点からは参加すべきだと。もう一つは、この件が外部に伝わることは当時もおそらく影響があっただろう。また当時皆が戒厳任務を執行していた、この自分の行為。本来は皆が精力を集中して戒厳任務をしっかりやるべきなのに、結果として私のこの問題も処理しなければならない、上級にも多くの面倒をかけた。少なくともこれらの方面においてである。

裁判長:他に何かあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:次に押収した一部の外電・外国紙の報道と動乱分子のビラの題目を朗読する。

(裁判官・周心華が朗読)第一部 外電報道の題目と抜粋:1、1989年5月18日23時 米国UPI通信報道:北京南部に駐屯する第38軍の将軍が北京への派兵命令を拒否。2、1989年5月19日 米国有線放送公司ニュース:第38軍は行動を取りたがらない。3、1989年5月19日20:54 米国UPI通信ニュース:第38軍の高級将校が中央指導部と交渉中。4、1989年5月19日23:55 米国NBC放送ニュース:第38軍のある将軍は、外国の侵略者に対して部隊を派遣するなら命令を執行するが、学生弾圧には派遣したくないと述べた。5、1989年5月19日21時 韓国ソウル放送ニュース:北京防衛の陸軍第38軍は当局に対し、民主デモを弾圧する意図はないと通報。6、1989年5月20日15:50 台湾自由中国之声報道:第38軍は軍長から兵士まで全員が入城を拒否、彼らは立派だ。第二部 一部外国紙報道の題目:1、香港明報1989年5月22日第一面:十万の大軍が城を包囲した状況、第38軍が再度入城命令を拒否、軍長は既に解任され別の者に交代。2、香港明報1989年5月21日第11面:学生弾圧のための派兵を拒否、中共の一軍首脳が解任。3、台湾中央日報1989年5月21日第二面:第38軍軍長が辞職、軍人は絶対に発砲しないと表明。4、台湾中央日報1989年5月20日第三面:共産軍が徐々に民主思潮を受け入れる。5、台湾中央日報1989年5月19日第一面:学生と李鵬との交渉決裂、中共が軍隊を北平に派遣、遼寧の二将校が辞職し命令受け入れを拒否、第38軍が北平進入を拒否した後、中共はさらに多くの外周部隊を北平に派遣中。6、台湾中央日報1989年6月1日第四面:中共の権力闘争・各自下心あり、共産軍内紛で命令違反事件発生、第38軍軍長が命令不服従で解任されたと報道。第三部 動乱分子の一部のビラ:1、1989年6月2日に天安門広場で撒かれた油印ビラ:感動的な物語:第38軍軍長解任の経過を記す。2、1989年6月3日に天安門広場で撒かれた油印ビラ:偉大な民主の英雄を称える——第38軍軍長を記す。3、1989年5月21日午後、北京から陸軍第21軍・第19軍・第47軍の軍部に送られた同一内容の電報ビラ、第38軍の連以上の軍官が一致して平和的な人民民主運動の弾圧を拒否したと称し、部隊が命令を執行しないよう扇動。1989年5月20日夜以降、北京から第24軍・第27軍・第28軍・第65軍の軍首長・軍政治委員・司令部・政治部・後勤部に送られた同一内容の電報ビラ、第38軍が官倒し腐敗根絶を求める請願運動の弾圧を拒否したと称し、部隊が命令を執行しないよう扇動。

裁判長:次に法廷は外電・外国紙の一部の報道と動乱分子のビラを提示する。見てよい、題目を見てほしい。被告人・徐勤先、今朗読した一部の外電・外国紙の報道と動乱分子のビラの題目は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:外電・外国紙および動乱分子のビラは、貴殿と第38集団軍が命令に背き入城を拒否した、貴殿は偉大な民族の英雄だと言い、これにより国内外に悪質な政治的影響を与えた。これについて何か言うことはあるか。

徐勤先:自分の問題により、動乱分子・暴乱分子および国外の敵対勢力に、さらに多くの中傷誹謗の機会を提供した。元々この動乱から暴乱まで、謡言によって支えられていた、隙がなくても刺そうとする。その上自分のこれらの誤りが加わり、下心を持つ者が攻撃し、中傷する機会をさらに与えてしまった。

裁判長:他にあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か言うことはあるか。

弁護人:ない。

裁判長:次に北京軍区参謀長・鄒玉琪、北京軍区司令部作戦部長・彭翠峰の証言を朗読する。

(裁判官・馮兆山が朗読)尋問調書 1989年10月6日午後、場所:85号棟招待所204号室。尋問者:石寄祖、被尋問者:鄒玉琪、軍区司令部参謀長。

問:本日は主に参謀長に、徐が命令に違反した後、第38集団軍の戒厳任務執行にどのような影響があったかについて話を聞きたい。主に組織指導面の影響についてである。

答:よろしい。私と徐との会話に関する事実については、証明書がある。徐が話した言葉は、意味は非常に明らかに命令違反である。私が彼を第二作戦当直室に連れて行って電話させたのは、時間が非常に切迫していたので、早く命令を伝達させるためだった。徐が電話を終えた後、私はまた作戦部の彭部長にも第38集団軍に電話させ、徐が軍区の命令をそのまま伝達し終えたかどうか確認させた。その後、私はまた劉政治委員にも第38軍に電話して、彼らが任務を明確にしたかどうか確認するよう提案した。劉政治委員も電話した。これが5月18日の状況である。5月19日夜、部隊が前進中に阻止されたと聞き、私は軍区指導者に状況を説明した上で、数人の同志を連れて現場を見に行った。ちょうど楊主任に会った。警護幹事の小胡が言った:首長も部隊を見に行き、指示をする予定である。夜12時過ぎ、楊主任が現在の情勢を話し、我々がこのような措置を採らざるを得ない状況を話し、必勝の信念を持たなければならないと話した。第38軍は光栄な伝統を持つ古い部隊である、徐勤先の問題は非常に深刻である。楊主任は言った:参謀長と張主任は第38軍の状況に関与してほしい、第38軍は参謀長・主任に報告するように。20日午前、周司令員がまた正式に宣言した、劉政治委員が同席して、作戦当直室で話したのは、鄒参謀長が機関の同志数名を率いて第38軍に行き協調組織することを建議・要求する、と。

問:貴殿らが第38軍に行った後、軍の他の指導者は徐が命令に違反した件を知っていたか。

答:知っていた。私は王福義政治委員を探し、徐が前回までに北京に来て任務を執行した状況を尋ねた。紹介に来た人員、王政治委員と一部の古参同志が紹介した、明らかに異常な状況は発見されなかったが、多少の動揺はあった。

問:もし徐勤先の問題がなければ、軍区は貴殿と参謀政治委員を第38軍に派遣しただろうか。

答:しなかっただろう、なぜ他の軍には誰も派遣しなかったのか。第38軍は当時予備隊だったのだから、なおさら人を派遣しなかっただろう。

10月6日

調査記録 1990年1月5日 被調査者:彭翠峰。

問:彭部長、貴殿の知る限り、徐勤先の問題が発生した後、指導者の仕事にどのような妨害があったか。

答:徐勤先の問題が発生した後、上級は第38軍に比較的注目し、人々の思想に影響があった。ここに一つの資料があるので参考にしてほしい。5月20日19時、周司令員が軍事委員会に状況を報告した時、ある人が言った、楊副主席には二つの不満がある:一つは第38軍軍長への不満で、これは容認できない、昔の言い方では厳しく制裁すべきだ、肝心な時にダメだったと。周司令員の報告ではまた、北京軍区部隊の第一陣は計4万人を計画していたが、そのうち第38軍1万5千人が阻止されて到着できなかった、第113師は長辛店で阻止された、保定から出発した時から1,500人以上の学生が地面に横たわり、結果として到着できなかったと述べた。

問:徐勤先の問題が発生した後、第38軍の配置にどのような変化があったか。

答:徐勤先がこれらの命令を拒否した後、軍区は黄雲橋副参謀長を第38軍に派遣して仕事を指導させる準備をしたが、後にまた政治委員と鄒参謀長を行かせることになった。

問:もし徐勤先に問題がなければ、政治委員と参謀長を第38軍に行かせただろうか。

答:首長も部隊を視察指導しに行った可能性はあるが、このような背景の下で行くのは、その任務と目的は異なるものだった。

裁判長:被告人・徐勤先、今朗読した鄒玉琪参謀長・彭翠峰部長の証言は聞き取れたか。

徐勤先:聞き取れた。

裁判長:鄒玉琪参謀長・彭翠峰部長は、貴殿の戒厳令違反の行為が戒厳任務の配置に深刻な妨害を与えたことを証明している。鄒玉琪参謀長・彭翠峰部長の証言について何か意見はあるか。

徐勤先:ない。

裁判長:弁護人は何か意見があるか。

弁護人:ない。

裁判長:これより休廷する。午後引き続き開廷する。被告人を連れて行け。

(書記官・趙永海が告知)裁判長・裁判官の入廷を請う。

裁判長:これより開廷を続ける。被告人・徐勤先を入廷させよ。被告人、座れ。被告人・徐勤先、貴殿は起訴状が指控する戒厳令違反の犯罪事実について、なお言いたいことはあるか。現在はなお法廷調査の段階である。

徐勤先:この起訴状の中で私を指控しているこれらの事実について、いくつかの点でやはり問題があると感じる、あるいは完全には符合しない、あるいは食い違いがある。一つは起訴状の冒頭に、遼寧省瀋陽市の人・小商人出身とある。これはやや事実に符合しない。都市では正式に成分を画定したことはないからで、正確に言えば、私は都市平民であり、以前店員をしたことがあり、非常に小さな商売をしたこともあるが、解放前は家族全員が野菜売りで生計を立てていた。だから各種の登記上で一致しておらず、これらの職業を総合すれば、毛主席が言った、一般的には都市平民というこの階層に属するべきである。いくつかの具体的な事実に関しては、一つは劉政治委員が伝達し終わった後すぐに部隊を率いて北京に入り戒厳任務を執行することを拒否したと言っているが、これは完全には符合しない。首長たちが話し終わった後、私は不明確な事項をいくつか請示し終え、いくつかの建議を提出するなどした後で、軍区には直接伝達してほしいと言った、あるいは参加したくないと表明したのであり、首長が話し終わるとすぐに、私がすぐさま部隊を率いてこれらの任務を執行することを拒否したわけではない。もう一つは調査段階でも言われたが、この中で何度も、あるいは「党の名義で発布するのは適切ではない」と言われている、これはあまり事実に符合しない。私は根本的にそのように考えたことはなく、そのように言ったこともない。同じ会議で、首長たちは軍長を通さずに伝達するのはまずいだろうと言った時、私はまた「軍隊は党の絶対的指導下にあり、党の言うことを聞く」と言った。だからこの中で「党の名義で発布するのは適切ではない」、国家がこれを発布するというこの言葉が出てきた、これは私がどうしても思い出せないことである。頭の中には根本的になく、そのように言ったこともない。第四の問題は、歴史の検証とか、あるいはこの件が一時には見通せないとか、また功績とか罪人とか、などのこれらの問題について話したことに関して、この中では全体を一つの段落として繋げているが、とにかくこれらの言葉は前後にあった。途中で首長が何かを言って、私がまた何かを言ったというように、全部が繋がった一つの段落のようではなかった。首長が言葉を発することがあり、首長の言葉は主に劉政治委員と李副司令員が言い、この二人が話し終わった後、時には私がまた二言三言言った。私が話し終わった後、首長たちがまた話し、こういう過程だった。第五点は、執行できないとか、軍事委員会が私を任命し・解任するとか言ったというが、これもあまり正確ではなく、しかも執行の問題を話す時には、主に作戦や災害救援と比較した。作戦任務は戦線が明確で・敵味方がはっきりして・目標が明確である、災害救援も同じである。これらの任務で携帯する武器装備で、善人と悪人が混在して区別がつかない、黒幕の策謀者がどこにいるか分からない。しかも武器装備を持っている、こういう状況でどう執行するのか。突然「こんな命令は執行しようがない」と言い出したのではない。前提条件なしに。途中にはまだ多くの前提条件があったのではないか。私を解任する・任命する、任命する・解任するというのは、私は上級のことを言った、上級は私を任命できるし、免職もできる。他の箇所でもまた言われた、別の人を探してくれとか、指揮できなくなったとか。これは私の観念の中では、この一つのチームは集団であり、この一つのチームの集団には、ある状況で一人が抜けても、病気やその他の事情があっても、このチームの指揮に支障はない。もちろん影響はある。午前にこれらの書類を提示し、これらの資料を朗読したが、いくらかの影響はある、しかしチームのこの指揮を妨げるわけではない。だからこれらの状況は、私は当時言った記憶がない。また王福義同志に言ったあの段落の言葉も、完全にあのようには話していない。話し終わった後、君たちで執行してくれ、私はいくつかの考えを軍区に既に話した、いくつかの異なる意見を言った、君たちで研究して貫徹執行してくれと言った。それほど多くのことを言ってもいない、その意味は確かにあった。またこの起訴状の中で言っている、その後軍区に対してこの任務を執行すると表明したことはないと。これは18日夜、その後私もまた言わなかった、つまり直接軍区に報告したということについては、あの夜はかなり無理があったが、王福義同志は彼が軍区首長に報告すると言い、しかも私は質問した、首長は理解してくれるだろうか、今さらまた参加するというのを、首長はまだ信任してくれるだろうかと。彼はいずれも問題ないと言った、その後は私はもう言わなかった。この中でもし私が直接軍区首長に参加すると表明したことがないと言うなら、それは事実だが、間接的なこの表明はあった。だからこの起訴状の中で指控しているいくつかの事実には、私はやはりいくつか問題があると感じている。もちろん午前の調査過程で、一部は既に話した。終わり。

裁判長:検察官は被告人・徐勤先に対して、なお尋問する必要があるか、または本法廷に審問を求める事項はあるか。

検察官:徐勤先、二つの質問をする。第一に、1989年4月下旬に鄧主席の講話と人民日報の「四・二六社説」があったが、貴殿は見たか。

徐勤先:見た。

検察官:鄧主席の講話と「四・二六社説」は、北京で発生した動乱の性質をどう述べているか。

徐勤先:動乱、極めて少数の者が計画的に行った。

検察官:動乱とはどういうことか。

徐勤先:二つの否定。

検察官:どの二つの否定か。

徐勤先:党の指導の否定、社会主義制度の否定。

検察官:これは当時分かっていたか。

徐勤先:分かっていた。

検察官:第二の質問:貴殿は古参の軍人・古参の党員だが、我が党・我が軍の組織原則は何か。

徐勤先:個人は組織に服従し、下級は上級に服従し、全党は中央に服従する。

検察官:これは明確だったか。

徐勤先:明確だった。

検察官:当時明確だったか。

徐勤先:当時も明確だった。

検察官:では集団軍の軍長として、上級特に軍事委員会の命令に対して、どういう態度を採るべきか。

徐勤先:一つの命令として言えば、断固として執行すべきである。

検察官:断固として執行すべきだが、貴殿は執行したか。

徐勤先:執行の過程で問題があった、個人として言えば、参加したくないと表明した。

検察官:いつ参加したくないと表明したか。

徐勤先:会議中と終わった後に劉政治委員に電話した時である。

検察官:貴殿は明確に参加したくないと表明した、そうだな。

徐勤先:劉政治委員に言ったのは参加したくない、参加したくないということである。

検察官:これはどういう性質の問題か。貴殿が会議中と劉政治委員に電話してあの態度を表明したのは、どういう性質の問題か。

徐勤先:この命令を執行したくないという意思である。

検察官:意思か。行為か。

徐勤先:この状況では、当時話したのはまだ意思だった。

検察官:貴殿は執行したのか。

徐勤先:個人としては、ああいう態度だった、これは既にすべて調査された。

検察官:個人は執行しなかったということか。

徐勤先:個人としては参加したくなかった、参加しなかった。

検察官:参加したくなかったというのはどういう意味か。貴殿に伝達された命令なのに、この参加したくないというのはどういう意味か、説明できるか。私の発問は終わった。

裁判長:弁護人……

検察官・蒋継光:一つ質問がある。今日貴殿は5月18日以後、直接軍級指導者に命令を執行すると表明したことはないが、間接的には言ったと言った。どう間接的に言ったのか。貴殿は第38軍の指導者に委託して軍区指導者に貴殿が任務執行に参加すると報告させたのか。

徐勤先:当時王福義同志は彼が軍区に報告すると言ったので、その後私は彼に報告したかどうか聞かなかった。

検察官・蒋継光:貴殿は王福義に委託して貴殿のために指導者に報告させたのか。

徐勤先:当時はそう言った、18日夜にそう言った。

検察官・蒋継光:誰が言ったのか。

徐勤先:王福義同志が言った。

検察官・蒋継光:貴殿は何と言ったのか。貴殿は王福義に委託したのか。

徐勤先:王福義同志は彼が既に話すと言っていたので、私は彼に改めて委託しなかった、彼もとても確定的に言っていた。

検察官・蒋継光:貴殿は王福義に委託して指導者に話させたこともないということか。この問題だな。

徐勤先:そうである。

検察官・蒋継光:終わった。

裁判長:弁護人は被告人・徐勤先に対して、なお質問する必要があるか、または本法廷に審問を求める事項はあるか。弁護人:ない。

裁判長:法廷調査は終了した。これより法廷弁論に入る。弁論の発言は、検察官・被告人・弁護人の順で行い、相互に弁論することができる。まず検察官の発言を求める。

検察官:裁判長・裁判官、我が国刑事訴訟法第112条の規定に基づき、我々は国家公訴人の身分で、被告人・徐勤先の戒厳令違反事件について公訴を提起し、本日の法廷に出廷し公訴を維持する。法廷調査を経て、さらに証明された。本院の起訴状が指控する被告人の戒厳令違反罪について、事実は明確であり、証拠は十分であり、性質認定も正確である。これについては繰り返さない。以下、我々は被告人の行為の社会的危害結果、本件に適用する法律の問題、および被告人が犯罪の道に至った教訓について、三点の意見を述べる:

一、被告人・徐勤先の戒厳令違反の行為は深刻な社会的危害結果を招来し、法に依り処罰しなければならない。

昨年の春夏の交、資産階級自由化を堅持する極少数の者が、国際的な敵対勢力と結託し、各種の卑劣な手段を採用して、学生運動を煽り立て、事端を挑発し、北京において共産党打倒・社会主義制度転覆を目的とする政治動乱を引き起こし、さらには反革命暴乱へと発展し、完全に西洋化した・資産階級共和国を樹立しようと企んだ。彼らは高自連・工自連等の非合法組織を設立し、学生のボイコット・デモを煽動し、さらには天安門広場でのハンガーストライキを組織した。彼らは大字報・小字報を利用し、謡言を捏造・散布し、狂ったように四つの基本原則を攻撃し、悪意を持って党と国家の指導者を誹謗した。彼らは党と国家の要害部位を襲撃し、党と政府に圧力をかけた。彼らは四方八方に連絡を取り、全国的な政治動乱を作り出そうと企み、首都北京を深刻な無政府状態に陥れ、社会秩序は混乱し、人々の仕事・生活の秩序は深刻な破壊を受け、国家政権は転覆の危険に直面した。日増しに悪化する混乱局面に直面し、党と政府はかつて異なるレベルで・各種のルートを通じて説得・規劝等の疎導方法を採用したが、いずれも効果を奏しなかった。動乱を作り出した極少数の者は、党と政府の忍耐・克制を軟弱・侮りやすしと見なし、得寸進尺し、絶えず事態を拡大した。忍ぶに忍べず・譲るに譲れない状況の下、党中央・国務院は北京の一部地区において戒厳を実施することを決定した。これは党と政府が国家の安全と安定を維持するためになした唯一の正確な選択である。しかるに被告人・徐勤先は、党と国家が生死存亡に直面する肝要な時において、公然と党中央と国務院の英明な決定に反対し、軍事委員会が下達した戒厳命令の執行を断固として拒否した。その行為は党・国家・人民の利益を損害し、危害結果は深刻である。一つは軍事委員会首長の仕事と北京軍区の戒厳任務執行の配置を直接妨害した:徐勤先が部隊を率いて北京に入り戒厳任務を執行することを拒否した問題が発生した後、軍事委員会首長は極めて重視し、速やかに明確な指示を出した。影響を消し、徐勤先の命令違反行為が既に招来したあるいは招来する可能性のある危害結果を極力回避あるいは減少させるため、各級指導者は一連の重大措置を採り、大量の艱苦細緻な工作を行った:総政治部の楊白冰主任は自ら第38集団軍前方指揮所に赴き部隊を見舞い、部隊安定化の工作を行った。北京軍区の指導者は何度も第38集団軍党委員会と指導者に対し、必ず工作をしっかり行い、部隊の高度な安定を保持し、軍事委員会が賦与した戒厳任務を断固として完成せよと指示・要求した。第38集団軍への指導を強化するため、軍区党委員会は直ちに陳培民副政治委員・鄒玉琪参謀長を同軍に派遣し、工作の援助指導に当たらせた。第38集団軍の指導者は徐勤先が命令に違反したとの知らせを聞いて、極めて驚愕し憤慨し、直ちに常務委員会と師以上の幹部会議を召集し、軍事委員会の命令を伝達し、徐勤先の誤りを批判し、任務を研究配置し、緊急措置を制定した。部隊が北京城区に向かって前進する時、一部の者は徐勤先の問題を利用して反動宣伝を行い、一部の幹部・戦士を傷つけ、部隊は深刻に阻止され、一時は到達できなかった。幹部・戦士は焦燥し、党への赤誠な忠心を表達するため、彼らは自覚的に天安門の方向に向かって宣誓した:党中央を死守する!社会主義祖国を死守する!首都北京を死守する!まさに各級指導者が高度に重視し、措置が果断であり、広範な将兵が党に忠実・人民に忠実な高度の政治的自覚を持っていたからこそ、徐勤先の犯罪行為が部隊にさらに大きな危害結果をもたらすことを回避できたのである。二つは徐勤先の犯罪行為は客観的に動乱と暴乱分子の反動的気炎を助長し、城内に入り戒厳任務を執行する部隊に困難を増大させた。一集団軍の軍長として、肝要な時に然るべき位置にいるべきなのにいなかった。これは客観的に自らの命令違反行為を社会に暴露した。動乱と暴乱の組織者は徐勤先の命令違反の件を利用して大いに渲染し、人心を惑わし、これを以て部隊を策反しようとし、軍心を攪乱し部隊を瓦解させようと企てた。5月20日以後、北京軍区の4つの集団軍が「第38軍が官倒し腐敗根絶を求める請願運動の弾圧を拒否した」という反動電報を受け取った。戒厳部隊が城区に向かって前進する時、一部の者が軍用車を阻止し、「第38軍軍長に学べ、城内に入って学生を弾圧するな」等の反動スローガンを大声で叫んだ。天安門広場では、動乱分子がさらに徐勤先を民族の英雄と呼び、一つの旗幟として、反革命的世論を大いに作り出し、これにより動乱と暴乱分子の嚣張な気炎を助長し、城内に入り戒厳任務を執行する部隊に多くの想像し難い困難を増加させた。三つは徐勤先の命令違反行為は、国際的な反動勢力が我々の党と政府の正確な決定を攻撃する口実を提供した。徐勤先の問題が発生した後、アメリカ・フランス・韓国・台湾・香港等の国家と地区の放送・新聞がいずれもこれを借りて大いに記事にし、悪意を持って我々の党と政府の北京の一部地区における戒厳実施の正確な決定を攻撃し、動乱と暴乱に波を助け、悪質な政治的影響を招来した。以上の事実が説明するのは、被告人・徐勤先の戒厳令違反行為は、根本的に党と国家の利益を背離し、敵対勢力の政治的需要に迎合し、結果は深刻であり、軍紀・国法が絶対に許さないものである。ここで指摘する必要があるのは、徐勤先の行為は職務犯罪に属し、たとえ本人が主観的にこのような社会に危害を与える結果の発生を必ずしも追求していないとしても、また故意に敵対勢力と裏応外合しようとしたのでなくとも、しかし彼は予見すべきであった。あのような非常の状況の下、自己の戒厳令違反行為が必然的に社会に危害を与える結果を発生させることを、しかし彼は故意にこのような結果の発生を放任した。したがって法律規定により、このような危害結果に対して推脱できない法的責任を負わなければならない。

二、被告人・徐勤先の行為が戒厳令違反罪を構成すると認定する法律根拠

まず、被告人・徐勤先の戒厳令違反行為は深刻な社会的危害性を具有する。我が国刑法第10条は明確に規定している:一切の国家主権と領土完全を危害し、無産階級独裁制度を危害し、社会主義革命と社会主義建設を破壊し、社会秩序を破壊し、全人民所有の財産と勤労者・勤労大衆集団所有の財産を侵犯し、公民の私人所有の合法財産を侵犯し、公民の人身権利・民主権利とその他の権利を侵犯し、およびその他の社会に危害を与える行為で、法律に依り刑罰処罰を受けるべきものは、すべて犯罪である。ただし情状が著しく軽微で・危害が大きくないものは犯罪と認めない。我が国のこの法定の犯罪概念は、明確に我々に告げている。犯罪の最も本質的な特徴は:行為の社会的危害性である。この危害性は、社会に対して既に招来した実際の危害を含み、また招来する可能性のある社会的危害を含む。したがって行為が社会的危害性を具有するかどうかは、我々が罪と非罪を区別する主要な境界線である。周知のように、命令服従は軍人の天職であり、いかなる軍隊が敵に勝利を収める重要な保証である。我が軍は党の絶対的指導の下にあり、革命的政治任務を執行する武装集団であり、中央と軍事委員会の命令に対して、いささかの躊躇と抗拒も許されず、断固として無条件に服従し執行しなければならない。しかるに、党と国家が生死存亡の緊要な関頭にあって、徐勤先は公然と軍事委員会の命令に違反し、部隊を率いて北京に入り戒厳任務を執行することを断固として拒否した。このような臨陣抗命の行為は、直接指導機関の戒厳任務執行の配置を妨害し、客観的に動乱と暴乱分子の嚣張な気炎を助長し、敵対勢力に党と政府を攻撃する口実を提供し、部隊が城内に入り戒厳任務を執行する困難を増大させ、国内外に悪質な政治的影響を招来し、党と国家の利益を深刻に損害した。既に深刻な社会的危害を招来し、刑罰処罰を受けるべき程度に達した。したがって被告人の行為が既に犯罪を構成すると認定するのは、誰か一人の主観的意志ではなく、被告人の戒厳令違反行為が招来した社会的危害性によって決定されたものである。

次に、徐勤先の行為は我が国刑法の「類推定罪」の原則に符合する。我が国は人口が多く・領土が広大な社会主義国家であり、異なる時期・異なる地区の状況は千差万別であり、一つの刑法に既に発生したおよび発生する可能性のあるすべての犯罪を漏れなく明文で規定することを要求するのは、難以である。国家と人民の利益を確実に保証するため、法律に明文規定がないが確かに社会的危害性を具有する犯罪行為を打撃するため、罪刑法定原則を堅持する基礎の上に、我が国刑法第79条は明確に規定している:「本法各則に明文規定のない犯罪は、本法各則の最も類似する条文を比照して定罪量刑することができる」。類推は畢竟法に明文規定のない行為に対して定罪量刑を行うものであるから、具体的運用において二つの基本原則を厳格に遵守しなければならない。一つは類推定罪の行為は必ず社会的危害性を具有し、刑事責任を追及すべき行為でなければならない。上述の通り、徐勤先が軍事委員会の戒厳命令に違反した行為は、深刻な社会的危害性を具有し、しかも既に犯罪の程度に達しており、その刑事責任を追及すべきである。二つは類推定罪の行為は必ず刑法各則条文に直接規定のない犯罪でなければならない。いわゆる刑法各則に直接規定のない行為とは、形式上それは刑事法律に触れるが、刑法各則の直接規定に表れるのではなく、最も類似する規定に表れるのである。まさにこのような行為が社会に危害を与え刑罰によって懲罰されるべき特徴を具有するからこそ、類推原則に依拠してその刑事責任を追及するのである。徐勤先の戒厳令違反行為は、刑法各則および刑法各則の一構成部分としての軍職罪条例のいずれにも明文規定がないが、軍職罪条例第17条が規定する作戦命令違反罪の構成要件と最も類似するので、したがって徐勤先に定罪科刑することは、我が国刑法の類推制度に関する法律規定に符合する。

第三に、徐勤先の犯罪行為の特徴に基づき、罪名を正確に認定する。法律規定により、類推の罪名は必ず犯罪行為の特徴に符合しなければならない。本件の実際状況から見て、徐勤先の問題は党中央と国務院が北京の一部地区において戒厳を実施することを決定する過程で発生したものであり、彼は主観上戒厳令違反の故意があり、客観上戒厳令違反の行為があり、これは軍職罪条例が規定する「戦時作戦命令違反罪」とは区別がある。ここで特に指摘する必要があるのは:北京の一部地区において戒厳任務を執行することは、一回の極めて困難複雑な大規模軍事行動であり、戒厳の成敗は直接党と国家の生死存亡に関わる。動乱を制止し反革命暴乱を平息すること自体が一回の特殊な戦闘である。この意義から言えば、徐勤先が軍事委員会の戒厳命令に違反した性質と結果は、ある具体的な戦闘命令に違反して戦闘失利を招いたよりも深刻である。中央軍事委員会89年5号文件は明確に指摘している:命令に違反し戒厳任務を執行しない者は、一般的に犯罪行為に属し、法に依り処罰すべきである。徐勤先の犯罪行為の本質的特徴に基づき、刑法類推の原則に依拠し、中華人民共和国懲治軍人職責違反罪暫行条例第17条の規定を比照し、最高人民検察院に報告して審査批准を経て、徐勤先を戒厳令違反で定罪することは、罪刑一致の原則を堅持しつつ、十分な法律根拠がある。

三、被告人・徐勤先が犯罪の道に至った教訓。

徐勤先は家庭出身が貧寒であり、15歳で革命に参加し、党と軍隊が育て上げた高級幹部であり、特に党の第11期三中全会以後、かつて我が軍の最高学府である国防大学に選抜派遣されて研修した。僅か数年で、彼は一人の団職幹部から集団軍軍長に昇進した。まさにこのような党から倍も信任され器重された幹部が、なぜ党と国家が生死存亡に直面した肝要な時に、軍事委員会の戒厳命令の執行を断固として拒否し、このように深刻な罪行を犯したのか。彼の教訓は再び深刻に我々に告げる:

1、必ず堂々と四つの基本原則を堅持し、旗幟鮮明に資産階級自由化に反対しなければならない。今日西側資本主義は我々を滅ぼす心を死なせず、各種の手段を採用して社会主義国家に対して平和的演変を実行し、社会主義が占領した陣地を奪取しようと企んでいる。このような大気候の下で、近年我が国国内では共産党の指導の否定・社会主義制度の否定を主要な特徴とする資産階級自由化思潮が深刻に氾濫した。被告人・徐勤先は肝要な時に、政治的立場が深刻に動揺し、党と離心離徳し、資産階級自由化の影響の必然的結果である。近年、徐勤先はマルクス主義基本理論の学習を緩め、資産階級自由化を宣揚する書刊に大いに興味を持ち、特に動乱を作り出した頭目人物の厳家其が書いた「首脳論」と「文化大革命十年史」を愛読し、線を引き点を打ち、その中から少なからず自由化観点を受け入れた。彼は誤って歴史の教訓を受け入れ、まず思想感情上で自由化と共鳴を生じ、続いて政治的立場が深刻に動揺し、動乱に対して同情的態度を採った。特に鄧小平同志の講話と人民日報4月26日社説がこの動乱の反動的本質を明確に指摘した後も、彼は終始明確な態度を持たず、軍区指導者が彼に中央の指示と軍事委員会の命令を伝達した時まで、北京の一部地区における戒厳実施は中央政治局常務委員会が決定したものであり、この命令は鄧主席の批准を経て・楊副主席が親自交付したものだと明確に告げられたにもかかわらず、彼は依然として頑固にこう主張した:この反党反社会主義の政治動乱は群衆運動であり、武力を動用すべきではない、と。そして動乱のエスカレートを党と政府の工作が十分でなかったことに帰し、最後には公然と命令違反にまで発展した。彼自身の言葉で言えば:これは実質上党と不一致の右傾立場に立ち、この事件の深刻な背景分析・階級分析・性質分析を離れ、党と国家の生死存亡に関わる問題上で極めて深刻な誤った認識を生じた。徐勤先の教訓は我々に告げる:マルクス主義理論の指導を欠き、経験・常識・感情等で革命を行うのは誤りを犯さないことが極めて難しい。共産党員特に高級幹部として、必ず四つの基本原則と資産階級自由化の対立が、我が国社会主義段階特にその初級段階において長期にわたって存在することを十分に認識しなければならない。資産階級自由化思潮が長期にわたって氾濫すれば、必然的に各種のルートを通じて部隊に伝わり、戦士と基層幹部に影響を与えるだけでなく、一部の中高級幹部の思想にも程度の差はあれ侵食を与える。したがって我々はより自覚的に・始終一貫して・長期にわたって弛まず資産階級自由化反対の教育と闘争を堅持しなければならない。これを実現するには、マルクス・レーニン主義・毛沢東思想の基本理論を真剣に学習し、特にマルクス主義の哲学と鄧小平同志の四つの基本原則堅持・資産階級自由化反対についての論述をよく学び、観察と問題分析の立場・観点・方法を把握し、政治的素質と複雑な環境の中で是非を弁別する能力を高めなければならない。理論学習は自己の思想実際と結合させ、正確な理論で自己の思想認識上の偏差と誤りを是正しなければならない。決して独善的で固執してはならない。マルクス主義理論を把握してこそ、各種の複雑な矛盾と問題の前で終始冷静な頭脳を保持し、堅定して正確な政治的方向を持つことができる。

2、必ず党の軍隊に対する絶対的指導を堅持し、いかなる状況下でも政治上・思想上、中央と高度に一致することを実現しなければならない。党の軍隊に対する絶対的指導は我が軍建設の一つの根本原則である。ある時期以来、資産階級自由化の立場を堅持する一部の者がいわゆる軍隊の非党化・非政治化という反動的観点を極力宣揚し、党と軍の分離を鼓吹した。昨年春夏の交の動乱と暴乱において、彼らはこれを理論根拠として、軍隊の戒厳任務執行に反対し、我が軍が国家政権を捍衛する職能を履行することを阻止しようと企んだ。徐勤先はこのような自由化観点を受け入れただけでなく、さらにこれを軍事委員会の戒厳命令執行拒否の理由とした。彼は言った:「軍隊動用というこのような大事は、全国人民代表大会常務委員会と国務院全体会議で討論すべきであり、このような命令は国家が発布すべきで、党の名義で発布するのは適切ではない」。党の軍隊に対する絶対的指導を疑い、肝要な時に中央と一致を保てなかったことが、徐勤先が犯罪の道に向かった一つの重要な原因である。この教訓は再び我々に告げる。我々の幹部、特に高級幹部は、必ず無産階級政党が無産階級と広範な人民大衆を指導して反動統治を打倒し・政権を奪取し・政権を固め・社会主義を建設しようとするなら、必ず軍隊を掌握しなければならないことを明確にしなければならない。軍隊がなければ、革命闘争が勝利を獲得すること・勝利した後にそれを固めることは不可能である。毛沢東同志は指摘した:国家政権を奪取しそれを保持しようとする者は、強大な軍隊を持たなければならない。党の軍隊に対する指導の最も根本的な表現は、軍隊の最高指導権が党中央と中央軍事委員会に集中していることであり、党中央と軍事委員会の授権なしに、いかなる者も軍隊に手を出すことは許されず、まして勝手に軍隊を調動し指揮することは許されない。改革開放と近代化建設の新たな歴史的条件の下で、各級指導幹部は必ず理論と実践・歴史と現実の結合上から、党の軍隊に対する絶対的指導を保証することの極端な重要性を深刻に認識し、一切の行動が党中央と中央軍事委員会の指揮に従うことを実現しなければならない。

3、必ず組織規律性を強化し、断固として命令に服従し指揮に従わなければならない。古今東西の軍事家は、いずれも軍隊の規律を非常に強調し、軍隊の高度な集中統一を強調した。これは軍隊自身が持つ特殊性によって決定される。「軍令は山倒れの如し」「長官の命令は部下の法律」「兵を養うこと千日、用いること一時」等の軍語は、この点を集中的に反映している。軍令に違反する者に対しては、軍事首長は惜しまず死刑を用いて制裁し、統一意志の貫徹を保証する。毛沢東同志が我が軍のために制定した「三大規律八項注意」の第一条がまさに「一切の行動は指揮に従う」である。鄧小平同志は指摘した:我々のこの軍隊は、歴来一切の行動は指揮に従うことを強調し、自覚的に革命規律を遵守することを強調してきた。このようにしなければ、我々は我々よりずっと強大な敵に勝てただろうか。党の軍隊に対する絶対的指導を保証し、党の路線と政策を貫徹執行できただろうか。我が軍の革命化現代化建設を加速できただろうか。今一部の幹部は上の指示を執行せず・命令に服従しない、これがまさに規律を守らないことである。まさにこのような重大な原則問題上で、徐勤先は自由主義的態度を採った。軍区指導者が彼に軍事委員会の命令を伝達した時、彼はまず思想的に納得せず、続いて公然と抗拒にまで発展し、狂ったように「このような大事は慎重に決定すべきだ」と提出し、解職・軍法による処分を以て指導者を脅迫した。各級指導幹部は必ず徐勤先のこの教訓を汲み取り、組織規律観念を強化しなければならない。我が軍の規律は高度な民主・高度な自覚の基礎上に建てられた規律であると同時に、それはまた厳格な・鉄の規律でもあることを認識しなければならない。厳格な規律は、正常な民主生活と矛盾しない。高級指揮官として、重大な決定に参与し、自己の主張を発表し、自己の意見を保留する権利がある。しかし上級特に党中央と軍事委員会の決定に対しては、必ず無条件に服従し・断固として執行しなければならず、個人の意思に従って自由に言論し・自由に行動することは決して許されない。このようにしてこそ、命令あれば必ず行い禁止あれば必ず止めることを確実に実現し、軍隊の高度な集中指導と統一指揮を保証できる。

4、必ず世界観の改造を真剣に行い、断固として個人主義に反対しなければならない。動乱平息・暴乱平息の闘争は、すべての共産党員、特に高級幹部に対して一回の最も実際的な試練である。鄧小平同志は指摘した:今回の試練を経て、我々の軍隊は合格であることが証明された。中央が一声命令を下すと、戒厳任務を担当する部隊は迅速果断に直ちに出動し、多くの幹部・戦士は国事と家事の前で依然として国事を重しとする決断を下した。彼らは婚期を延期し、休暇を放棄し、新婚蜜月を中断し、病気を押して再三請願し、親族の訃報・病危電報を懐に踏んで征程に赴いた。彼らは辱めを忍び重荷を担い、焦らず躁がず、打たれても手を出さず、罵られても言い返さず、実際の行動で大衆の理解を求めた。無私無畏・慷慨として死に赴く者もあり、党と共和国への忠貞不二・矢志不渝を表した。多くの指導幹部、特に高級幹部は身を以て兵卒に先んじ、煉瓦の雨を頂き・火の海を踏み・前線で指揮し、この特殊な戦闘任務を立派に完成し、人々のために新たな功績を立てた。しかし集団軍軍長としての徐勤先は、この厳しい政治闘争の前で、まず考えたのは党と人民の根本利益ではなく、個人の得失だった。任務を受領する時、彼は責任を負うことを恐れ、このような任務を執行すれば功績を立てるかもしれないが、歴史の罪人になるかもしれないと言った。彼は自己批判書の中で言った:「今回の生と死・血と火の試練の前で、自分で自分を歴史の列車から振り落とした。鄧主席は明確に指摘した、極力流血を避けよ、しかし流血を恐れるな、国際的反応を恐れるな、名声が悪くなることを恐れるな。しかし自分の思想はやはり比較的恐れていた、流血事件特に大きな流血事件が起きることを恐れた。一旦そうなれば、党と軍隊の威信が影響を受けると感じ、執行部隊と執行者の名声も影響を受けるだろう」。一語で天機を破る。徐勤先が当時軍事委員会の命令執行を断固として拒否したのは、まさに自己の名声が影響を受けることを恐れたからであり、根本的に国家の安危を考慮せず、これにより彼の極端利己主義の人生観を暴露した。徐勤先が我々に与える最も深刻な教訓は、新たな歴史時期において、各級指導幹部、特に高級幹部は、自己を始終堅定して正確な政治的方向と高尚な道徳情操を保持させ、資本主義が我が国に対して実行する平和的演変戦略が駆使する各種の伎倆に打ち勝つには、客観世界を改造すると同時に、努力して自己の主観世界を改造し、絶えず思想上の塵埃を清除し、自覚的に無産階級思想を用いて自己の言行を規範し約束し、真にいかなる時いかなる状況下でも、個人利益を無条件に党と人民の利益に服従させ、無私無畏・立場を堅め・風雨を経ても折れず・泥沼から出ても染まらないことを実現しなければならない。これは当前において特に重要である。

裁判長・裁判官、徐勤先が公然と軍事委員会の戒厳命令に違反した行為の性質の深刻さ・政治的影響の悪質さは、我が軍の歴史上稀に見るものである。国法軍紀を厳粛にし、本人と部隊を教育するため、必ず法に依り処罰しなければならない。同時に考慮すべきは、これは非常時期に発生した一種の特殊犯罪事件であり、徐勤先が軍事委員会の戒厳命令に違反した後、集団軍指導者の工作を経て、彼は思想的に納得していなかったとはいえ、軍の個別の指導者に対して部隊に行くと表明したことがあった。徐勤先は革命に参加して40年近く、かつて部隊建設のために一部の有益な仕事をした。これらの状況は、被告人の犯罪性質の認定に影響しないとしても、また法定の軽減情状でないとしても、法廷が量刑する時に考慮されるよう請う。

裁判長:次に被告人の陳述と弁護に入る。

徐勤先:公訴を維持する検察官について、私自身は本来この弁論に参加するつもりはなかった。自分には本来誤りがあり、問題が出たからである。今日公訴が提起され、法廷が審理し、事実があり法律があり、どういう問題と認定し・どう処理するか、すべて道理がある。しかし法廷弁論は一つの手続きであるから、このように言うと、自分でいくつかの意見を述べる。自分は問題を起こしたのだから、このような状況で話すのは必ずしも適切ではないが、法廷の参考に供する。

第一の問題、「比照類推」の問題について話す。先ほど検察官が既にこの問題を話し、これ以前にも私に話した。何を根拠にするか・どう類推するか・どの級の批准を経たか。自然に比照と類推の道理がある。私自身の意見を話すと、私はこの比照・この類推にはいくらか無理があると認める。戒厳任務にはその特殊性があり、作戦任務とは同じではない。作戦任務は、任務目標・戦線は非常に明確である。一方この戒厳は、政治性が非常に強い問題であり、しかも少数の者がこの動乱を作り出す中で、また相当多数の群衆がこれに参加し、善人と悪人が混在し、軍隊と民衆が混在し、戦線が明確でない。このように言うと、この性質の差別は大きい。一部の問題が戒厳中に発生したが、もし作戦中に発生したなら、根本的に発生し得なかっただろう。これは戒厳任務執行という一種の特殊状況としてある。この任務を受領し実施する前と過程の中も、同じではない。この条例17条を比照するのは、それが話しているのは作戦中のことであり、作戦中とは一部のことについて措置を採りたくないということである。一方今回の私の問題は、任務受領のこの段階で発生した。つまり5月18日午後のこの時間の中で。また目的も同じではない。作戦過程中にこの類の問題が発生すれば、それは臆病かあるいは実力を温存するためである。一方この戒厳任務は、より多く政治上の結果を考慮し、それが引き起こす可能性のある問題も比較的多い。だからこのような比照類推は、完全に適切かどうか。既然類推を比照するなら、自然に比照類推の道理がある。完全に適切かどうか、これは考慮されるよう請う。つまり上述のような一部の特殊状況がある。これが私の話す一つの問題である。

第二の問題は、法廷調査の中で、5月18日に私が問題を起こした時、話したこれらの言葉・言ったこれらの事は、証人証言と完全には同じではない。この中で、私は法廷に請う、もちろん検察官にも考慮を請う。事情は5月18日に発生し、私のこの問題はまた比較的特殊だからである。これ以前に、私の問題を証明する人の大多数は軍区の指導者である。例えば軍区指導者がこれ以前に、例えば7月中旬以前、9月・10月に至った者もいるが、この中で既に何回も会議を開き、一部の状況は何回も交流している。5月18日に当時発生したあの状況・当時のあの情節・当時話したあれらの言葉を還元しているのか。今私は既に口があっても弁じ難い。会議に参加したのは私自身だけ、第38集団軍だけだが、会議で私が何を言ったか・何をしたかを証明するのは、大半が軍区の指導者・二級部長である。この中で、もちろん何か他の問題があるわけではなく、主に時間が長くなり、途中でいくつかの会議を開いて、私の問題をどう処理するか研究し、一部の状況を既に交流したからである。元々の5月18日のこの事情の本来の姿ではなくなっているのではないか。言ったことのない言葉、考えたことのない言葉が、今では出てきている。だから私は本当に理解できない。

第三の問題は、先ほど検察長が公訴を維持して、一部の結果の問題を話した。私が感じるのは、いずれにせよ、この問題はやはり私が引き起こしたものであり、この社会的結果が招来した悪い影響について、私は自然に主要な責任を負うべきである。しかしこの結果についても法廷に考慮を請う。一部の結果は私に問題があったから、組織が一部の対策を採ったものである。つまりこの結果は、この引き起こしたことは、完全に私一人に帰すことはできない。当時のあのような複雑な社会条件の下では、隙間がなくても各種の下心を持つ者が隙間を見つけようとした。いくらか隙間があれば、彼らはさらに風を興し浪を作る。だからこの結果・この問題を大半私の身に帰すのは、私は不公平だと感じる。当時謡言は多かった。事後のこの事件を平息した報告の中に、大量の文章あるいは報告の中でこの事情に触れている。確かに私の問題があったからだが、今、動乱分子であろうと暴乱分子であろうと・国内外の電信であろうと、何かの話を言ったからといって、今では統統私の頭に帰している。では何かは他の謡言も作っていないのか、では事実もあるのか。また私のこれらの事はいったい完全にその通りなのか、今日午前法廷で一部の資料を朗読した、私もちょっとめくってみたが、仔細には見ていない。つまり一部の事は、それは事実ではなく、当時のあの環境と背景条件の下で生じたものである。

第四点の意見、先ほど検察官が私のこの問題を分析した時、いくつかの所で言っていることはやはり非常に道理があると私は感じたが、一部の所はまた完全には事実に符合していない。例えば厳家其の本について言うと、厳家其の本はこの事情が発生する前は、私は根本的に見ていないか、何ページかめくっただけで、私が隔離された後・私が看管された後、本を見るものがなくなって、ついでにめくってみたのである。だからこの事件発生後にこの本を見たことを、発生原因に帰すのは、いくらか事実に符合しない。この数年本を見るとすれば、主なものはやはりマルクス・レーニンの本、各種軍事刊行物・正規刊行物である。その他の雑多なものは、私には時間がなかった。今回私が看管された後に、やっと時間ができて、ついでにめくったのである。とにかくめくってみたが、当時厳家其がどういう人かも知らなかった。ずっと6月に陳希同が報告をして初めて彼がどういう人か知った。それ以前は彼がどういう人か根本的に知らなかった。本も私が買ったのではなく、すべて公家が買ったものである。だからこれはかなり無理がある、誤解かもしれないが、この期間中、見る本がなくなって、ついでに本を取って見てみたのである。

第五点、私はこの会議で多くの誤った意見を発表し、深刻な問題が発生した、これは法廷に考慮を請う。当時軍区首長が命令を伝達し終わった後、私は不明確な問題をいくつか質問した。まず私は意見と建議として多くの問題を提出した。もちろん問題発生後のこの一定期間、私は自分は基本的にまだ正しいと認めていた。これは私が言う当時の考えであり、私は一人の党員として、党のこの高級幹部として、党員幹部として、いくつかの意見を提出することもだめだと言うのか。だから自分はまだ自分が正しいと認めていた。もちろん今日見ると、自分のこの大前提はやはり誤っていた、大前提にやはり問題が出た。私が思うに、この意見建議部分と、この他の誤りの部分と、および私を指控するこの他の問題と、この犯罪と、すべてよい。しかし私が思うに、意見と他の問題はやはり区別すべきである。もし私がこの会議で提出すべきでなかったと言うなら、あるいは場合が不適切だったか、あるいは意見自体が不正確か、批判・是正、私はいずれも正しいと思う。しかし完全に問題として、完全に罪として扱うのは、これも必ずしも完全に適切ではないと私は思う。我々のこの党規約準則ではないか。確かにこれは戒厳任務を配置するこのような会議だったが、この軍隊は党が絶対的に指導するものであり、多くの問題は党の原則に従って事を処理しなければならない。我々の党規約・党内生活準則はいずれも規定している、党員は党の方針政策決議に異なる意見があれば、党の会議で提出でき、また各級党組織から中央まで口頭または書面で報告できる。党組織は党員群衆の批判と建議を歓迎すべきであり、同時に党員に対して党に誠実であること・言行一致であること・自己の政治観点を隠さないことを要求する。事実を歪曲しない、党の決議政策に異なる意見があれば、断固執行する前提の下で、保留を声明でき、しかも自己の意見を党の上級組織から中央まで提出できる。同時にまた要求している、すべての共産党員特に各級党委員会のメンバーは、党委員会の決定を断固執行しなければならず、もし異なる意見があれば、保留でき、あるいは上一級党委員会に声明を提出できる。しかし上級または本級党委員会が決定を変更する前は、決定を執行すれば直ちに深刻な結果を引き起こす・非常に緊急な状況を除き、無条件に元の決定を執行しなければならない。私が思うにこの党規約・この準則は、基本的に二つの精神である。一つは異なる意見または建議があれば、上級党委員会組織に対して、観点を隠さず提出するか声明保留すべきである。第二点の強調は断固執行の前提の下でなければならない。第三点もまた言っている、この非常に緊急な状況下で、もし執行すれば深刻なこの結果を引き起こす場合は除外する。自分はこの問題上で、この党規約・準則これらの条文の理解上で、完全ではなかったと感じている。断固執行の前提の下で各種のこの意見と建議を提出するというのは、不十分だった。しかし当時もまた考えた、つまりこの事情をこうやれば、すぐにこの深刻な社会的結果が出てしまうのではないかと。だから自分の思想的懸念は比較的多かった。だから引き起こすこの深刻な結果を考慮した。この結果とはこの大規模な衝突、あるいは流血事件である。このような結果は私の主観的意願から言えば、見たくないものだった。中央首長が、流血がなかった、衝突が発生しなかった、一つの石が地に落ちたと話すのを聞いた時、次のステップどう解決するか、自分は言った、とても良いと感じたと。もちろんその後状況が変化し、思想がついていかなかった、それはやはり自分の問題・自分に誤りがある、これは確かである。提出すべきだったか否か。提出の場合は正しかったか否か。および意見自体が正しかったか否か。しかし今日問題が既に発生した以上、私が思うに我々の法廷も・検察官も、やはり一人の人間を全面的に見るべきである。例えば一人の人間が党に対して忠誠かどうかは、彼が党の思想政治路線・方針・政策の貫徹と執行を見るべきであり、また異なる意見があれば、如実に党組織に反映できるかどうかを見るべきである。この毛主席・鄧主席は過去に話したことがある、党内のルートを疎通するため、意見発表を奨励し、「五不怕」の精神を用いて異なる意見を言い出すことを提唱すると。自分はこの問題上で、もし私の理解が不正確だと言うなら、これはよい。しかし自分はまた確かに考えた、我々の党の歴史上誤りが出現したことがあると。私は先ほど検察官が私のこの事情を分析し指控したことに同意した。つまり過去誤りがあった、その原因の一つはまさに多くの意見が反映を得られなかったことだ、その一つだろう。つまり多くの意見が反映を得られない、また考えると党と国家のこのような大事に関わると言っていた。建国40年来このような大事に遭遇した。心から言えば、確かによくなることを希望した。私が思うにこの点は全党の同志がおそらく皆このような考えだ、もちろん一部の重点は完全に同じではないかもしれないが、皆うまく処理することを希望した。このような願望を完全に問題として責めるのは、これは完全に妥当か。これは考慮を請う。そうかそうでないか・あるいはつまりこの問題を提出するのは完全に個人利己主義から出発したと言うのは、私が思うにこれもいくらか過分である。もちろん鄧主席は確かに話した、つまりこの何の社会的反応を恐れるな・世論が悪くなるのを恐れるな・名誉が悪くなるのを恐れるな、この意味で流血事件が出た後、これを恐れあれを恐れるな、これは自分の思想にはあった。しかしより多く、より主要なのはやはり我々のこの党・やはり我々のこの軍隊である。党と軍隊が当時考慮の重点だった。建国40年来我々はいくつかの誤りが出現した。もし大きな事情を言うなら、おそらくこれが最も大きな事情だ。他の事情にこれほど大きなものがあるか。これが最も大きな一つの事情である。もちろんまた十年動乱があった、あれも比較的大きな一つの事である。だから内心から、確かにそれを非常に完璧に処理することを希望したが、考慮の角度・考慮の高度・考慮の深浅、これは自分はおそらく皆不正確だった。しかし願望と動機目的は、やはり我々の党と国家の長治久安から考慮したのである。当時正式に討論はしなかったが、私が思うに時には、これは読書中だったから、皆のこの願望から時々話すと、やはり皆うまく処理することを希望した。当時指導同志も話した、この国際的反応についてもこれは比較的良いと認めた。伝達の時にも、この問題に触れた。だから自分は何度も考えた、過去いくつかの誤りがあった、自分は見て取ったが、しかし言う勇気がなかった、とにかく事後自己批判し、三中全会以後、我々の党は実事求是の思想路線を回復し、拨乱反正したと感じた。一部の問題は見て取った、しかしあるいは自分は認める、自分はこの問題があると認める、こう妥当かあるいはああ妥当でないか、それを言い出した。私は今回言い出したが、やはり言い間違えた、言い間違えた。自分が問題を考慮する角度が不正確・高度が不正確・深浅程度も不正確だったから。中央の角度に立って考慮していなかった。だから自分がこれらの問題を提出し、これらの意見を発表したのは、上級が考え決定したこととはおそらく謬之千里である。

最後の一点の意見、自分自身のこの問題は、これが罪と認められるか・罪が重いか軽いか、私が思うにこの思想問題と政治問題・誤りと罪行には越えられない鴻溝はない。一部の問題は思想問題だが、しかし政治問題にも転化しうる。一部の問題は誤りだが一定の度を過ぎれば、罪行になりうる。だから自分の問題は、今どのような状態にあるか、正式に私を逮捕した時、既に私に話した、貴殿はこの問題をどう認識しているかと。私もこの意見を話した。だから私は自分の問題の深刻性については、十分な認識がある。私を指控する一部の事実は、私が声明した・話したいくつかの条を除き、私はまた当時の状況に符合すると思う、一部は完全には符合しない。この鴻溝をどう画くか。つまりいったい誤りなのか罪なのか、いったい思想問題なのか政治問題なのか。私は法廷がこの事実に基づき・法律に基づいて判断を下すと信じる。この点は個人の一つの希望として、話すだけである。自分がこの事情の前後の過程については、関連する一部の状況を法廷に陳述するだけであり、最終陳述ではない。つまり自分が当時これらの問題を起こした・この状況を言う。つまり5月上旬以後から、5月初に最後に任務を執行し、軍区読書クラスが5月11日に終了した、皆この状況は基本的に終わったと感じ、次のステップで工作をすれば終了すると言った。しかしこの中で一つの最大の背景が出現した。我々の党内にこの党を分裂し動乱を支持するこの誤りが出現し、趙紫陽の身に発生した。当時各種の世論、および一部の指導同志の講話は、調子が完全に一致していなかった。時にはこの方面を重視し、時にはあの方面を重視し、この思想は一貫して下りてこなかった。これは自分の思想にもいくらかの影響を与えた。鄧主席の講話、「四・二六社説」およびその後のその他の指導同志の講話、趙紫陽のことはもう言わない、あれは動乱支持と分裂・党の分裂である。党中央にこれらの問題が出現して、下のこれらの問題に影響し、実事求是に分析すべきである。これらの問題を完全に一集団軍軍長の身に帰罪することはできない。一集団軍軍長が了解する状況も非常に限られているからである。一つの鄧主席講話・一つの「四・二六社説」を伝達した以外は、また任務受領時に話したあれだけであり、他の状況も何も知らないわけではなかった。他の状況も皆話した、民主法治軌道で解決するとか・監察部何かで解決するとか・民主対話を通じて解決するとか、多くの意見を話した。しかも話した一部の意見は、正確なものはいずれも歓迎された。しかしその後これらの事はどうも続かなかったようだ。もちろん私は今これらの事を言って、動乱・暴乱の原因を我々の工作が十分でなかったことに帰罪しているのではない、そうではない。それは遅かれ早かれ発生しただろうから、つまり敵がここで巡視し騒ぎを起こしていた。しかしもしこの分裂が出現せず、一貫して最後まで貫いていれば、問題もこれほど深刻にはならなかっただろう。だからこの問題は、この環境背景を適当に考慮されるよう請う。第二点は、私は5月15日に発病し、5月18日正午に任務を執行しに行った。途中この病はかなりひどく、私は病中で、処置を受けながら任務を受領しに行った。もし私がこの任務に対してまだ非常に消極的だったなら、当時総院の医師たちは私を行かせなかった。私はやはり行くと言い、私は何とか処置してくれと言い、私はやはり行くと言った。私はいかなる言い訳を探さなかった。私はずる賢い戦いを打ちに行った。もちろんこの任務は行った後思想に大きな震動を引き起こし、思想に多くの異なるものがあった、それは別の問題であり、それは自分の問題である。任務を受領しに行ったのは、あのような状況の下で任務を受領しに行ったのである。これが第二点の具体的状況である。第三点の具体的状況は、私はまず不明確な問題をいくつか質問した。党内生活から言えば、すべてを明確に言い、つまり誤りであってもやはり意見であるか。今ではこの意見・誤りと罪行・指控が皆一緒にされている。しかも今ではこの話したとされる一部の意見は既に変形し、私が元々言った意味に符合しない。この話は・この事情は将来どう処理するか。これは個人としてはこれらの考えを言い出すしかない。どう変わったか考えたこともなく、頭の中に根本的にないものが、どうして出てきたか・変形したか。これはどういうことか分からない。

第四点、私はこの首長たちが伝達し終わった任務を聞いて、話した状況については、私のこの問題の存在を否認するのではない、そういう意味ではない。私が記録を取り・これらの問題を質問したのは、軍に向けて伝達する表示があった、つまりこの準備があったということである。しかし思想上、考えがあったか、思想に考えがあった。しかしこの準備があった。だからこのようにして、一部の問題を質問した。この正確に・この確認した・この記録はこのような意味であり、この確認を用いて私に問題があることを否定するのではない、そういう意味ではない。先ほどの私の弁護もこの意味ではない、問題は問題として、つまり当時思想上どのような考えがあったか、如実に法廷に陳述する。既然伝達するこれがあるなら、伝達するなら伝達を間違えないようにしなければならない。この事情を明確にしなければならない。私がもう伝達したくなくなったなら、伝達したくなくなったなら正確かどうか構うものか。そうすればそれは一種の断固対抗の姿勢である。実際にはそうではなかった、つまり当時真剣に記録を取り、一部の記録で不正確な所は確認して正確にした。確認して正確にした目的は、私が軍区にこの意見を話した後、軍区が私に伝達させたら、私は依然として伝達するということである。この問題を説明しているだけで、私の問題の存在を推脱するのではない。これが第三点である。第四点は、私は発揚民主のこの問題について話していない。この会議で、私は確かにいくつかの意見を話した。確かにあの日の会議も皆で発揚民主しよう、皆がまたいくつか意見を出そうとは言わなかった、そうだった。私はこの会議で党規約に従い・準則に従い、いくつかの意見を提出できると認める。私のこの意見が誤りだと言うなら・私が提出すべきでないと言うなら・提出の場合が不適切と言うなら、これはすべてよい。しかしこの提出したこれらの意見・これらの事を統統一緒にすることはできない。私の意味はこの意味であり、口実にしようというのではない。我々の党内には正常な民主生活があると言い、どうも私がこれらの問題を話せば、この問題は存在しなくなるかのようだが、そういう意味ではない。最初から私は話した、これほど大きな問題、これほど大きな群衆性政治事件は、政治的に・主に政治的方法で解決すべきだと。軍隊を調動する。武力を用いなければならないなら、衛戍部隊があり・公安があり・武警がある。野戦軍を用いる必要があるなら、北京郊外に調動して威嚇を保持すればいい。誰々が会議を開くよう建議した。結果今では誰々が会議を開くよう建議したというのは、この中から何人か削除されている。だから私は発揚民主を用いて自分の誤り・自分の問題を推脱したくない。問題は問題であり、罪責は罪責である。しかし私がこれらの状況を説明したのは、途中にこのような一段の過程があり、私は意見として話したのだと言うためである。これらの意見をどう認定するか、これは法廷で考慮できる。では今日弁論段階で言うと言うなら、まだいくらかの合法権益があり、話してよい。それで私はこの意見を言い出した。どう認定するかは、どう認定するかである。私もこれが発揚民主のこの会議だとは認めていない。しかし私の観念の中では、上級がどのような任務を話したか、何か異なる意見があればまだ提出してよいようだった。もし貴殿が間違えた・貴殿が正しくないと言うなら、貴殿がどんな責任を負うべきか・どんな責任を負うかである。私はこの点を説明したいだけである。第五点、この事情はとにかく法律手続きに従い、私にはどうしようもない、これはどう言えばいいか、言いようがない、そうだろう。とにかく私はそうは言っていない、例えば本当にそうは話していない、本当にそうは言っていない、本当にそうは考えていない。では今では、多くの証人証言が私がそう言ったと証明している。では法律のこの角度から言えば、どう認定するかはどう認定するかである。しかし事実から言えば、私は総じて明らかになる日があると思う。彼は話していない、彼は根本的にこの事を考えていなかった。つまり一つの普通の常識ではないか。貴殿は言うことができる、今では貴殿が高級幹部だとは言わないが、貴殿が初級幹部だとしても、一人の基層指揮員だとしても、軍隊は党が絶対的に指導するものだと分かっている。党の名義で発布するのは適切ではないとも言えないし、終わった後に何とか人民代表大会常務委員会と国務院に討論させろとも言えない、一挙にこの中央と中央軍事委員会を脇に置くのか。これは常識範囲内の事である。これは感情が激動しても、激動してあそこまで行くはずがない。この事情は、私は多くを言いたくない。首長たちは多いし、しかも大部分がこのように言っている。しかし私も確かにあのようには話していない、私も確かにあのようには考えていない、あのようには考えていなかった。これは一つの問題だろう。他の問題は、弁護士に私のために弁護してもらう。終わった。

裁判長:次に弁護人の発言を求める。

弁護人:裁判長・裁判官、軍区法律顧問処は被告人・徐勤先の委託を受け、我々を徐の第一審弁護人に指定した。中華人民共和国刑事訴訟法第28条の規定に依拠し、弁護人の責任は事実と法律に基づき、被告人が無罪・罪軽であること、またはその刑事責任を軽減・免除すべきことを証明する資料と意見を提出し、被告人の合法権益を維護することである。

開廷前、我々は本件のすべての資料を閲覧し、被告人に会見した。先ほどまた法廷調査の状況と検察官の発言を聴取した。我々が認めるところでは:徐勤先は一人の集団軍軍長として、本来断固として命令を執行すべきである。しかし徐は軍区首長に対して個人として任務執行に参加しない、命令を執行しに行かないと表明した。問題の性質は深刻である。しかし本件の一部の具体的情状問題を考慮し、被告人の合法権益を維護するため、ここに以下の弁護意見を発表する:

1、徐勤先が戒厳任務を受領・伝達する段階で、上級と上級首長および組織に対して個人として戒厳命令を執行しないと表明した行為は、指揮員が戒厳命令を執行しない行為の一種の比較的軽い形式に属する。例えば徐勤先は任務受領後、首長の命令の下で、やはり要求に従って第38集団軍の王福義政治委員に電話をかけ、軍事委員会と軍区が第38集団軍に賦与した具体的任務を伝達した。伝達後、彼は軍区首長に「任務は既に伝達した、自分は総院に戻って入院する」と表明し、その後この事はもう彼を探さないでほしいと言った。これらの事実は、彼が述べた自分は所属部隊の命令執行に影響を与えるつもりはなく・ただ自分個人として戒厳命令執行に参加したくなかっただけという目的と一致しており、指揮員個人が戒厳命令を執行しない行為に属するべきである。このような行為自体の危害程度の認識について、我々は指揮員が戒厳命令を執行しない基本形式を分析することができる。

例えば行為発生の時間によって、受領・伝達戒厳任務段階、組織動員と物資準備段階、命を奉じて出発前進段階、および戒厳実行段階の命令を執行しない行為に分けることができる。非常に明らかに、上述の各後一段階の命令を執行しない行為は、いずれも前一段階の命令を執行しない行為より、より直接に集体個体を侵害する。したがってその危害程度は、後者が前者より大きい。だから、授命伝達任務段階に発生した命令を執行しない行為の危害は、後のいくつかの段階に発生した命令を執行しない行為より軽い。

また例えば、採用した方式によって三種に分けることができる:第一種は下に命令を伝達するが、上級に対して個人として命令執行に参加しないと表明する行為。第二種は面従腹背で指揮員の職務を利用し、所属部隊の命令執行を妨害する行為。第三種は上級の命令を扣押し、所属部隊を支配して命令執行を抗拒する行為。明らかに、上述の第一種方式の行為の直接結果は、上級が速やかに発見し新たな指揮員を派遣して戒厳準備工作と戒厳任務を完成させることができるので、一般に戒厳時機を遅らせたり直接戒厳任務の完成に影響することはなく、指揮員が戒厳命令を執行しない行為の比較的軽い一種である。一方第二種方式の行為は一定の欺騙性を持ち、所属部隊の命令執行への妨害性があるので、上級の発見が遅れ・戒厳時機を遅らせる可能性があり、あるいは直接戒厳任務の完成に影響する。一方第三種方式の行為は最も深刻な一種であり、戒厳任務の完成に直接深刻な影響を与える。

上述の分析から分かるのは、指揮員が戒厳命令を執行しない行為から見て、徐勤先の行為は時間段階上においても・採用した方式上においても、いずれも比較的軽い形式の戒厳命令を執行しない行為に属する。この点は法廷が本件を処理する時に考慮されるよう請う。

2、徐勤先は戒厳準備段階でかつて組織に対して自分が戒厳任務執行に参加すると表明した。法廷調査を経て実証された:1989年5月19日、副政治委員・呉潤忠同志が第38集団軍常務委員会の委託を受けて軍区総院に徐への工作を行いに来た時、徐は自分が戒厳令執行に参加すると表明し、呉に対して部隊に任務執行動員をしっかり行うことおよび前進途中に注意すべき問題等三点の建議を提出した。ここで説明を要するのは、軍区は19日午前既に第38集団軍に対して徐と部隊との連絡を断つ等を通知していたが、呉潤忠は19日早朝既に集団軍を離れて軍区総院に向かっていたので、軍区の通知の精神を知らなかった。したがって徐が軍区は彼の任務参加に同意するだろうかと質問した時、呉はかつて軍区は同意するだろうと答えた。したがって、徐のこの表明は本級組織に対する直接のおよび上級組織に対する間接の意思表示と見なすべきである。徐は彼の部隊が命により20日に前進集結すべきことを知っていたので、彼が任務執行に参加すると表明した時、なお組織動員と物資準備段階にあり、しかも職務履行を開始する言行があった。これらは徐勤先が自己の元々の個人として命令執行に参加しないという行為を一定程度終止した情状と見なすべきである。この点も法廷が本件を処理する時に注意されるよう請う。

3、徐勤先事件のその他の情状についての意見。一つは徐勤先は入隊40年、革命戦争と部隊建設において、かつて一部の有益な仕事をした。二つは1989年5月上旬以前、徐はかつて二度部隊を率いて北京に入り、軍事委員会が下達した首都秩序維持の重要任務を完成した。三つは彼が5月16日に発病入院した後、客観上動乱の真相に対する深刻な理解を欠き、また一定程度当時の誤った世論誘導と中央の二つの声音の影響を受けた。これらの客観状況も法廷が本件を処理する時に全面的に考慮されるよう請う。

裁判官:検察官は被告人・弁護人が弁論中に提出した問題について、何か異なる意見があるか。何か言うことはあるか。

検察官・蒋継光:裁判長・裁判官、先ほど弁護人・被告人は犯罪の事実・性質について弁護意見を提出した。我々が注意したのは、弁護人が提出した犯罪の性質が犯罪の終止に属するという点で、既に犯罪を構成すると言い、有罪の弁護として、この点は我々の認識と一致する。しかし被告の犯罪行為が犯罪の終止に属するかどうかについて、我々の認識では:被告人の行為は犯罪の終止ではない。法律規定によると:犯罪終止は必ず三つの条件を具備しなければならない:第一に、被告人は必ず犯罪過程中に主動的に犯罪を停止しなければならない。犯罪行為は犯罪の予備・または未遂段階にのみ発生しうる。既遂段階では、犯罪の終止問題は存在しない。これが犯罪終止の一つの条件である。終止の第二条は必ず自動的な終止でなければならない。つまり、犯罪者が本来犯罪を最後まで遂行できたのに、彼の意志によって自動的に自己の犯罪行為を終止したことである。第三条は必ず徹底的な終止でなければならない。つまり犯罪者は必ず徹底的に犯罪を放棄したのでなければならない。被告人・徐勤先の所作所為を縦観すると、犯罪終止のこの三つの条件に符合しない。第一に、被告人は5月18日に公然と軍区指導者に対して戒厳命令執行を断固拒否すると表明し、犯罪は既に完成した。しかも5月18日夜7時頃、再び劉政治委員に電話して「任務は私が既に伝達した、その後の事はもう私を探さないでくれ」と表明した。劉政治委員も明確に話した、君は入院していろ、その後も部隊の事は管理するな、と。これらは皆、指導者が徐勤先の表明した態度に対しても明確だったことを説明しており、徐勤先が話したのはこれ以上明確になりようがない。これは既遂した犯罪であり、19日に軍の指導者の工作を経たとはいえ、徐は終始いかなる指導者に対しても執行の意思を表明したことがない。これは徐の戒厳令違反が実行中の犯罪であることを説明しており、根本的に終止問題など存在しない。第二に、徐は19日にかつて集団軍の呉副政治委員に対して執行の意思を表明したとはいえ、しかし徐本人も明確に知っていた。彼が受領した任務は軍事委員会が第38集団軍を調動して北京に入り戒厳を執行する命令であり、この命令は軍区のものでも・集団軍のものでもなく、命令が一旦下達されれば、決して児戯ではない。徐は既に明確に命令執行を断固拒否すると表明しており、もし再び執行に参加しようとするなら、決定権は軍ではなく、軍区でもなく、軍事委員会にある。したがって5月19日の表明は、戒厳令違反の構成に影響しない。第三に、終止の第三条件によると、犯罪者は必ず真心誠意・徹底的に犯罪を放棄したのでなければならない。しかし被告人は5月24日に軍長職務を解任される時まで、政治部の指導者に対して「誤りか否かは、歴史が検証すべきだ」と表明した。言外の意味は、戒厳令違反行為は正確だったということである。お尋ねする:これがどうして徹底的犯罪終止・犯罪放棄と言えるか。またどうして犯罪の終止と称することができるか。これが私の答弁する第一の問題である。また先ほど弁護人が提出した被告人の犯罪時に各種の客観的要素の影響を受けたこと、および上級の・当時の社会条件の二つの声音の影響を受けたことについて、この問題について我々の認識では、つまり当時の社会各方面の影響は客観的に存在した。しかし決定的な要素はやはり被告人の主観にあり、これは徐勤先の戒厳令違反を軽減する一種の理由とすることはできない。第一に、いかなる事情の発生・発展と変化も、すべて当時当地の社会条件・外界要素の影響を受けるとしても、しかしこれは本質的なものではない。マルクス主義の認識では、外因は変化の条件であり、内因は変化の根拠であり、外因は内因を通じて作用する。被告人の命令違反は資産階級自由化思想の影響を受け・世界観の改造が徹底していなかった・肝要な時に党と離心離徳した・政治的立場が堅定でなかったことによるものであり、これこそが本質的なものである。第二点に、個人は組織に服従し・下級は上級に服従し・全党は中央に服従し・命令に服従するのは軍人の天職であり、命令に違反する者は斬首の罪がある。これは一人の普通の軍人の最低限の常識である。集団軍軍長としての徐勤先はこの点を明確に知っていた。当時徐はかつて解職を恐れない・軍長をやめることを恐れないと言って命令違反の決心を表した。これは彼の主観的故意が明確であり、しかも十分な思想的準備をしていたことを説明している。第三点に、もし二つの声音の影響を受けたと言うなら、当時二つの声音の影響を受けたのは決して徐本人一人ではなかった。他の同志は肝要な時になぜ断固として命令を執行し・任務を立派に完成することができたのか。私が思うに最も根本的なのはこれらの同志が政治上において合格であり・行動上において中央と一致性を保てたということである。第四点に、法律が追究するのは被告人の戒厳令違反行為およびこの行為が我々の国家に・我々の党に・社会に対して招来した危害であり、思想上何か種々の原因の影響を受けたということについては、それは皆思想動因上のことであり、犯罪性質の認定に影響せず・犯罪事実の認定にも影響せず、法律上軽減の条件ではない。

次に私は第三の問題を答弁する。先ほど弁護人・被告人がいずれも話した:命令執行しないと提出した時は個人の身分であった、どうも私個人は組織を代表していない、部隊を代表して命令違反したのではない、ということらしく、この情状は比較的軽い。私が認めるにこの問題は成り立たない。まず、この軍区が第38集団軍軍長に通知し、軍区に来て命令を受領させた、これは軍区が命令を授与したのは第38軍に対してであり、決して徐勤先一人に対してではないことを説明している。徐勤先が来て任務を受領したのも当時第38軍を代表して任務を受領したのである。だから徐勤先が当時命令に違反したのは軍長の身分であり、個人の何かの名義ではなかった。そもそも個人名義でも命令違反は許されない。また、徐は部隊に命令を伝達したとはいえ、しかし徐の行為自体が第38軍にも深刻な影響を与えた。この点から言えば、徐自身がこの個人の身分で命令違反したことで罪責を軽減できると言うのも成り立たない。被告人が任務受領時に、私を軍長から解任してもよいと提出したことについて、これは彼が個人名義であることを説明すると言う。私が思うにこれは恰好にも被告人が断固として命令を執行しない決心を表したことを表している。徐勤先が当時命令違反した時、個人の身分を代表して命令を執行した・命令違反をしたことを説明することはできない。

また、先ほど被告人がこの自己弁護の中で、多くの証言と自分の記述が同じではないと話し、この意味はこれらの証言が客観的でないということだったが、この言い方には根拠がないと我々は認める。まず、刑事訴訟法第31条の規定により、証人証言は証拠の一種であり、しかもこれらの証人証言はすべて当事者に基づき、当時の事情の事実に基づいてなされ、捜査員が法に依り収集し・検察院が審査して確認した法的効力を持つものである。第二点に、法律規定により、事件の真実状況を証明できるものはすべて証拠である。刑事訴訟法第35条もまた規定している、被告人の供述のみあって証拠がなければ立件できず、被告人の供述がなくても証拠が確実に十分であれば、定罪量刑できる。当時その場にいた人は徐勤先一人ではなく、また当時その場にいたのは一人二人の証人ではなく、多くの人が当時言った。この証人が提出した証言は客観的である。本件の起訴状が認定した犯罪事実は、すべての言葉に二人以上の証人証言が証明している。だから、我々の起訴状が認定した犯罪事実は客観的であり、これらの証人証言も法的効力を起こしており、立件の根拠とすることができる。

先ほど弁護人と被告人もいずれも話した、被告人の歴史的表現状況を全面的に見るべきだと。この点について我々は公訴詞の中で既に話したが、この問題をさらに話すため、今私はこのような意見を話したい:我々の党内は歴来政策として賞罰分明・功過分開であり、被告の功績によってその犯罪を覆い隠すこともできなければ、犯罪によって一生の歴史を考慮しないこともできない。これは公訴詞で我々が非常に明確に話した。被告人・徐勤先は仕事において確かに表現が良かった。党の第11期三中全会以来、連続して一人の団職幹部から集団軍軍長に昇進した。これは党が徐勤先の仕事を肯定したことを説明しており、しかも与えるべきものは皆与えた。しかし被告人の仕事の表現が良かったからといって、今犯罪を犯したのに刑事責任を追及しないというわけにはいかない。被告人が自分で党の自分への信任を大切にせず、自分の栄誉を大切にせず、政治上から中央との一致問題を解決することを重視しなかったことが、肝要な時に突撃陥陣できず軍令に違反することに至った。これは党紀国法が許さないところである。今日法律が追究するのも、まさに被告人の軍令違反が党と国家に対して招来した社会に危害を与える行為である。

もう一点は、被告が先ほど話した:私は民主を発揚しているのだ、私は正常に意見を提出しているのだ、軍令に違反しようとしたのではない。これを以てその軍令違反の実質を抹消しようと企んでいるが、これは許されない。民主発揚と軍令違反は性質が異なる別物である。まず二者の性質が異なる。民主発揚は集思広益の基礎上で思想を統一し・歩調を統一し・行動を統一することに達し、目的はさらに大きな勝利を獲得するためである。一方軍令違反は、戦時であろうと平時であろうと、極端な無政府主義の表れであり、結果は革命を損害し、革命事業に重大な損害を与えることしかできない。次に、二者の発生する背景と条件も異なる。民主発揚は平時の党内の正常な生活であり、批判と自己批判を展開する一種の表れである。一方軍令違反は、上級の決定が既に下達された後、無条件に執行しなければならない問題である。第三に、二者の発生する結果も同じではない。民主発揚は多くの結果を導き出すことができ、一つの意見が否決されることもあり、あるいはさらに完善されることもある。軍令違反は一つの結果しかない、つまり革命事業に損害を与えることである。これから見て5月18日に被告人が軍事委員会が第38軍を調動して北京に入り戒厳任務を執行する命令を下達したことを明確にした時、命令執行を拒否したのは、いかなる意義においても民主を発揚しているのではなく、命令違反である。被告は故意に二つの性質の異なる問題を混同しているが、目的は責任を推脱することにあり、これは許されない。

また先ほど被告人が話した、私は真剣にこの記録を取った、私の思想から言えば、私は個人として伝達したくなかった、私は個人として執行したくなかった、部隊はやはり執行するのだ、これにより一つは彼が中央の決定に・軍事委員会の命令に対して擁護したことを説明しようとした・反対したのではないと。事実は恰好にも反対である。常に被告人が当場で確かに記録を取り、また確かに関連データを確認した。しかしこれは被告人が軍事委員会の命令に対して擁護した・執行したことを説明できない。我々が一人の人間を判断する時、その言を聞くだけでなく、さらにその行いを観なければならない。被告人は当今明確に自分は知らないと表明しただけでなく、しかも行動上も軍事委員会の命令を執行しなかった。これがどうして思想上は執行したかったと言えるか。この行動上は、ただ執行が断固としていなかった問題だというのか。

先ほど被告人がまた結果の問題について話し、社会上に各種各様の伝説があっても、これは自分と関係がなく、この責任を皆自分の身に帰すことはできないと認めた。被告人は注意すべきである。本院が先ほど発表した公訴詞の中で、既に被告人が招来した結果を説明した。これらの結果は被告人の行為が引き起こしたものであり、これらの結果が皆被告人が招来したものだとは言っていない。しかし我々が注意したのはこのようないくつかの問題である:一つは5月18日以前に社会上に確かに部隊について第38集団軍と徐本人についての伝説・伝聞が少なからず存在した。調査を経て、この期間に、被告人と社会の非合法組織との組織上の連絡はまだ発見されておらず、また徐が自己の命令を執行しない考えと計画を社会に漏らしたことも発見されていない。この点は、これは先ほど我々が既に説明した。社会上の伝聞について、18日以前は徐勤先と無関係であり、この期間の伝聞の中にも、明確に第38軍徐軍長の名前を挙げていない。したがって5月17日、解放軍報はこれについて専門に謡言否定の記事を出した。第二点に調査を経て、徐は5月18日に戒厳令に違反する前に、社会上の一部の伝聞と一部の謡言を知っていた。本来なら貴殿は高級指揮官として、社会上に自分についてこれほど多くの政治的謡言を聞いたら、警戒を高め・騙されないよう厳防し、自分の断固として命令を執行する行為を以て謡言を否定すべきだった。そうすれば党に・人民に・革命事業に対してより有利だった。しかし事実は恰好にも反対である。徐勤先は5月18日に多くの軍区指導者の前で、公然と命令執行を拒否し、自分の行為を以て謡言を現実に変えた。これから見て、被告人の主観の悪性は並みではない。第三点に、被告は高級幹部として、党と国家が生死存亡に直面した肝要な時に、肝要な問題で軍令に違反し、然るべき位置にいるべきなのにいなかった。これ自体が自分の戒厳令違反行為を公然と社会と部隊に暴露した。皆が知っているように、謡言は恐れるに足りない。謡言は事実で突き破ることができるからである。しかし被告人の戒厳令違反行為が社会上に暴露された事実は、世論で澄清することが難しい。このような行動の影響と招来した結果は想像に難くない。第四点に、より主要なのは、徐の行為は客観上国内外の敵対勢力の需要に迎合し、我々の党に・我々の国家に・我々の軍隊に深刻な危害結果を招来した。午前法廷が列挙した国内外の一部の事実が既にこれらを説明しており、ここでは一々列挙しない。

上述を綜合すると、これらの事実は皆説明している。被告の行為が招来した結果は深刻であり、首脳機関の仕事配置を妨害しただけでなく、部隊内部に思想上の混乱を招来した。しかも客観上動乱分子の嚣張な気炎を支持し助長し、彼らのために一面の旗幟を樹立した。徐の行為はさらに世界の世論に対して公然と宣布した、中国において確かに一人の将軍が命令に違反したというこのような事実が発生したと。これらは皆結果ではないか。私が答弁するのはこれだけである。

検察官:私は一つの問題を補充答弁する。先ほど被告人が一つの問題を提出した、つまり当時彼が命令に違反した時の動機は良かった、国家の事情を心配していたのだ、したがって犯罪を構成しない、と。この問題は被告人が犯罪構成に対する一種の誤った認識であると我々は認める。一般的に言えば、いわゆる犯罪動機とは犯罪を駆動し・犯罪行為を実施させる内心の起因を指す。法律規定により、一般的に動機は犯罪を構成する必要条件ではない。特殊な犯罪についてのみ、動機がこの罪を構成する条件となる。犯罪動機は多種多様であり、同一の犯罪に異なる犯罪動機が出現しうる。被告人・徐勤先の戒厳令違反の動機も、一つの錯綜複雑な動機である。中央の決定に対する不理解から生じた憂慮と抵制という動機もあれば、責任を負うことを恐れるという動機もあり、同時に政治的立場が堅定でないという問題もある。したがって被告人の動機については簡単に良いか悪いかで評価することはできない。しかし一点は明確に言える、今我々が調査で確認した状況から見て、徐勤先には反党反社会主義の動機はない。したがって我々は彼を戒厳令違反罪と認定した。これは一種の職務犯罪であり、動機だけでは戒厳令違反というこの犯罪を構成する必要条件ではない。だから本件について言えば、徐勤先がいかなる動機から出発したとしても、その戒厳令違反罪の構成の認定には影響しない。しかし被告人が当時犯罪した動機が一種の錯綜複雑な動機であったことを考慮し、我々も法廷が量刑する時にこの問題を考慮されるよう提請する。私の補充答弁は以上で終わり。

裁判長:次に被告人の発言を求める。

検察官・王昌生:私はもう一つの問題を補充答弁する。先ほど被告人が自己弁護を行った時、その中で一つの問題に触れ、彼は問題発生前、入院中だったと話した。当時体調があまり良くなく、これは彼のこの思想に一定の影響があった。これは説明を要する。我々が調査で把握した状況によると、5月18日正午に第38集団軍副参謀長・唐明洪が徐勤先に軍区に会議に来るよう通知した電話の中で、既に彼の体の状況を尋ねた。当時被告人に尋ねた時、被告人は明確に体に問題はない、軍区に行って会議に参加できると表明した。第二は5月18日午後、軍区指導同志が被告人・徐勤先の話を見て、感情があまり正常でなく、彼もこの命令を執行しないと表明した時、ある指導者がまた被告人に体に問題があるかと尋ねた。被告人は当場で再び体に問題はないと声明した。これが事件発生前、および徐勤先が戒厳令に違反した過程中に、彼が自己の体の状況についてした回答である。事件発生後・問題発生後、つまり解放軍検察院が本件を捜査した時、解放軍検察院の捜査担当の同志も何度も被告人に尋ねた:問題発生の時体はどうだったか。被告人が尋問に回答した時も、こう回答した。体の問題ではなく、思想の問題だと。今年の1月8日、つまり本院が解放軍検察院の委託に基づき、本件の審査起訴を正式に受理した後、蒋副検察長がまた被告人に尋問した時、尋問の時またその体について尋ねた。戒厳命令を執行しなかった主な原因は何か。当時の被告の回答も、主に思想の問題だと話した。したがって上述の事実を総合して説明されるのは、被告人が命令を執行しなかった問題を病魔纏身等の原因によるものだと言うのは、自己矛盾なしに説明できないことである。彼の今日のこの言い方は、問題発生時および問題発生後の何度もの表明とも一致せず、自己矛盾である。

裁判長:検察官はまだ何か意見があるか。次に被告人の発言を求める。

徐勤先:一部の問題は弁護士に私のために弁護してもらう。私個人が回答する問題はこのいくつかである。私は先ほど病魔纏身とは言っていない。私が言ったのは私が任務を受領しに行った時、意味は私は体調が悪いことを口実にして任務受領に行かないとしたのではなく、あるいは自分の問題を推脱したのではないということである。全体の問題発生について、先ほどこの検察官が話したのも正しく、何度も私はこの問題を話した。体は当時確かに良くなかったがそれは主な原因ではなく、主な原因は思想問題である。私はこの問題のためにそれを他所に押しやりたくない、本来問題であるものを、偷梁換柱するのは、そういうことではない。唐明洪が私に電話した時、行けるかと聞かれ、私は体が良くなった、行けると言った。体がいったい良いかどうか、それは医者が当時のあの状況を言うしかない。だからこの事について、私はこれを用いて自分の過失・罪責を推脱しなかった。そういう意味はない、これは先ほど何も反駁する意味はなかった、私は一つ説明しただけである。これが第一点である。第二点について、この社会上のこの一部の結果・一部の伝言についてだが、16日に入院し18日正午、これは16日夜・17日一日・18日には誰もいなくなったのを経過した。つまりこの一日半で、行ったり来たりしたが、とにかく私の所に来た人・見舞いに来た人は少なくなかった。私が解職されたと言う者もいて、これを言いあれを言い、当時病中だったから、この事を確かにいくらか聞いたが、十分には気にしなかった。当時体も彼らとこれらの問題を討論することを許さなかったから、これは非常に苦痛な状態だった。しかし彼らが言って来た後、私も偶然一言聞いた、返事もしなかった、この問題を討論もしなかった。これが第二の問題である。第三の問題は、私が首長たちの伝達した任務を聞き終わった後に話した状況について、決して私のこの問題の存在を否認するのではない、そういう意味ではない。私が記録を取り・これらの問題を質問したのは、軍に向けて伝達する表示があった、つまりこの準備があったということである。しかし思想上、考えがあったか、思想に考えがあった。しかしこの準備があった、だからこのようにして、一部の問題を質問した。この正確に・この確認した・この記録はこういう意味であり、この確認を用いて私に問題があることを否定するのではない、そういう意味ではない。先ほど私の弁護もこの意味ではなかった、問題は問題として、つまり当時思想上どのような考えがあったか、如実に法廷に陳述する。既然伝達するこれがあるなら、伝達するなら伝達を間違えないようにしなければならない。私がもう伝達したくなくなったなら、伝達したくなくなったなら正確かどうか構うものか。そうすればそれは一種の断固対抗の姿勢である。実際にはそうではなかった、つまり当時真剣に記録を取り、一部の記録で不正確な所は確認して正確にした。確認して正確にした目的は、私が軍区にこの意見を話した後、軍区が私に伝達させたら、私は依然として伝達するということを説明しているだけで、私の問題の存在を推脱するのではない。これが第三点である。第四点は、私は発揚民主のこの問題について話していない。この会議で私は確かにいくつかの意見を話した。確かにあの日の会議も皆で発揚民主しよう、皆がまたいくつか意見を出そうとは言わなかった、そうだった。私はこの会議で党規約に従い・準則に従い、いくつかの意見を提出できると認める。私のこの意見が誤りだと言うなら・私が提出すべきでないと言うなら・提出の場合が不適切と言うなら、これはすべてよい。しかしこの提出したこれらの意見・これらの事を統統一緒にすることはできない。私の意味はこの意味であり、口実にしようというのではない。最初から私は話した、これほど大きな問題、これほど大きな群衆性政治事件は、政治的に・主に政治的方法で解決すべきだと。軍隊を調動する。武力を用いなければならないなら、衛戍部隊があり・公安があり・武警がある。野戦軍を用いる必要があるなら、北京郊外に調動して威嚇を保持すればいい。誰々が会議を開くよう建議した。結果今では誰々が会議を開くよう建議したというのは、この中から何人か削除されている。だから私は発揚民主を用いて自分の誤り・自分の問題を推脱したくない。問題は問題であり、罪責は罪責である。しかし私がこれらの状況を説明したのは、途中にこのような一段の過程があり、私は意見として話したのだと言うためである。これらの意見をどう認定するか、法廷で考慮できる。では今日弁論段階で言うと言うなら、まだいくらかの合法権益があり、話してよい。それで私はこの意見を言い出した。どう認定するかは、どう認定するかである。私もこれが発揚民主のこの会議だとは認めていないが、私の観念の中では、上級がどのような任務を話したか、何か異なる意見があればまだ提出してよいようだった。もし貴殿が間違えた・貴殿が正しくないと言うなら、貴殿がどんな責任を負うべきか・どんな責任を負うかである。私はこの点を説明したいだけである。第五点、この事情はとにかく法律手続きに従い、私にはどうしようもない、これはどう言えばいいか、言いようがない。とにかく私はそうは言っていない、例えば本当にそうは話していない、本当にそうは言っていない、本当にそうは考えていない。では今では多くの証人証言が私がそう言ったと証明している。では法律のこの角度から言えば、どう認定するかはどう認定するかである。しかし事実から言えば、私は総じて明らかになる日があると思う。彼は話していない、彼は根本的にこの事を考えていなかった。つまり一つの普通の常識ではないか。貴殿は言うことができる、今では貴殿が高級幹部だとは言わないが、貴殿が初級幹部だとしても、一人の基層指揮員だとしても、軍隊は党が絶対的に指導するものだと分かっている。党の名義で発布するのは適切ではないとも言えないし、終わった後に何とか人民代表大会常務委員会と国務院に討論させろとも言えない、一挙にこの中央と中央軍事委員会を脇に置くのか。これは常識範囲内の事である。これは感情が激動しても、激動してあそこまで行くはずがない。この事情は、私は多くを言いたくない。首長たちは多いし、しかも大部分がこのように言っている。しかし私も確かにあのようには話していない、私も確かにあのようには考えていない、あのようには考えていなかった。これは一つの問題だろう。他の問題は、弁護士に私のために弁護してもらう。終わった。

裁判長:次に弁護人の発言を求める。

弁護人:先ほど検察官が話した、犯罪構成と犯罪終止の問題について。犯罪終止が犯罪構成に影響すると話した。先ほど被弁護人はこの含意・この意味ではなかった。終止は必ずしも構成に影響しない。犯罪構成と犯罪終止は二つの異なる概念である。第二点に、我が国刑法は規定している、犯罪過程中に、自動的に犯罪を終止し、あるいは自動的に有効に犯罪結果の発生を防止した者は、犯罪の終止である。我が国刑法のこの条項をどう理解し、徐勤先の5月19日の意思表示が終止の意思表示であるかどうか、本弁護人は多くを言いたくない。徐が命令執行に参加しない行為が、なお持続する過程中にあるかどうか分析してみよう。


徐勤先將抗拒戒命令案文字實錄全文

(注:此文字稿由2025年11月24日,由六四研究學者、八九民運參與者吳仁華首次發佈於網上的解放軍北京軍區軍事法院秘密審判1989年拒絕執行戒嚴令的原解放軍38集團軍軍長徐勤先的錄影視頻整理而成,開庭時間為1990年3月17日。)

此文字實錄英文版在此

(開庭鈴聲,書記員趙永海宣佈)請公訴員、辯護人入庭,請審判長、審判員入庭。報告審判長,公訴員、辯護人已經入庭,被告人已押到候審室候審,開庭準備工作就緒。

世彬(以下簡稱審判長):中國人民解放軍北京軍區軍事法院現在開庭,傳被告人徐勤先到庭!

(徐勤先在前後共3名士兵的押送下進入法庭,在被告人席站立)

:北京軍區軍事法院根據中國人民解放軍軍事法院、軍事檢察院1989軍檢法字第11號通知、依照中華人民共和國刑事訴訟法第111條之規定,對北京軍區軍事檢察院提起公訴的被告人徐勤先違抗戒嚴命令一案進行不公開審理。不公開審理的原因是本案涉及國家機密。

員馮兆山:被告人徐勤先,(徐勤先喊“到”)坐下。你還有別的名字沒有?

徐勤先:沒有。

員馮兆山:今年多大歲數?

徐勤先:55。

員馮兆山:哪一年哪一月生?

徐勤先:1935年8月。

員馮兆山:什麼民族?

徐勤先:漢族。

員馮兆山:原籍是哪裡的?

徐勤先:原籍,算遼寧瀋陽吧,我生在山東。

員馮兆山:生在山東。遼寧瀋陽市人。現在家住何處?

徐勤先:北京八大處。

員馮兆山:具體地點、樓號?

徐勤先:紹家坡1號吧,20樓2單元

員馮兆山:什麼文化程度?

徐勤先:大專。

員馮兆山:什麼時間入伍的?

徐勤先:1950年12月。

員馮兆山:入伍以後都歷任什麼職務?

徐勤先:學員、報務員、參謀、副營長、營長、團參謀長、科長、處長、師參謀長、師長、副軍長、軍長。

員馮兆山:什麼時間任38集團軍軍長的?

徐勤先:1987年12月。

員馮兆山:什麼時間被授予什麼軍銜?

徐勤先:1988年9月授予少將軍銜。

員馮兆山:何時被監視居住的?

徐勤先:1989年9月11日。

員馮兆山:監視居住的地點在什麼地方?

徐勤先:北京衛戍區上葦甸倉庫。

員馮兆山:就一個地方?

徐勤先:以後轉到軍區後勤492倉庫。

員馮兆山:何時、因犯什麼罪被依法逮捕的?

徐勤先:1990年1月9日,逮捕證上寫的是因為“違抗戒嚴命令”。

員馮兆山:逮捕以後關在什麼地方?

徐勤先:北京軍區看守所。

員馮兆山:你過去受過什麼獎勵沒有?

徐勤先:立過功,當過先進工作者,受過一些獎勵,都記不清了。

員馮兆山:立功的主要原因是什麼?

徐勤先:工作積極努力,任勞任怨。

員馮兆山:過去是否受過處分沒有?

徐勤先:這個記不太清楚了。當時、以後也沒有見(過處分決定)。受過批評是肯定的,因為丟失過一次地圖,這個不知道最後是給了處分還是批評一下就完事了,鬧不太清楚。

員馮兆山:過去是否受過刑事處分沒有?

徐勤先:沒有。

周心:被告人徐勤先,(徐勤先:到!),坐下。兩個手不要亂動,放好了。現在向你宣佈合議庭組成人員、書記員、公訴人、辯護人名單,告知你在法庭上享有的各項訴訟權利義務。根據中華人民共和國刑事訴訟法第105條和中華人民共和國人民法院組織法第10條第二款的規定,本合議庭由本院大校副院長世彬、正團職上校審判員馮兆山、副團職中校審判員周心華組成,由副院長世彬擔任審判長。本院正營職少校審判員趙永海代理書記員,擔任法庭記錄。根據中華人民共和國刑事訴訟法第112條之規定,北京軍區軍事檢察院上校副檢察長姜吉初、正團職中校檢察員蔣繼光、正營職少校檢察員王昌生出庭支持公訴並對法庭審判活動是否合法進行監督。根據中華人民共和國刑事訴訟法第26條的規定,由你委託的北京軍區法律顧問處法律顧問楊雲凱、曲衡棟擔任你的辯護人,出庭辯護。

員馮兆山:被告人徐勤先

徐勤先:到

員馮兆山:剛才向你宣佈的合議庭的組成人員、書記員、公訴人、辯護人的名單,你聽清了沒有?

徐勤先:聽清了。

員馮兆山:坐下。

周心:需要你起立的時候,由審判長來指定你起立。聽見了嗎?

徐勤先:聽到了。

周心:被告人徐勤先,根據中華人民共和國刑事訴訟法第23條、第24條、第25條的規定,你在法庭上享有申請回避權。如果你認為合議庭組成人員、書記員、公訴人與本案有利害關係,可能影響公正處理本案,你可以提出理由申請回避,但是否應當回避,由本院院長或者由北京軍區軍事檢察院檢察長依法決定。聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

周心:你對合議庭組成人員、書記員、公訴人是否申請回避?

徐勤先:不申請,都同意。

周心:被告人徐勤先,根據中華人民共和國刑事訴訟法第26條的規定,你在法庭上享有辯護權利。除辯護人為你辯護以外,你自己可以行使辯護權,進行陳述和辯護。聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

周心:被告人徐勤先,根據中華人民共和國刑事訴訟法第118條的規定,你在法庭上還享有最後陳述的權利。在審判長宣佈法庭辯論終結後,你可以做最後的發言,你對自己的犯罪有何認識、對法庭有何要求,都可以進行最後的陳述。聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

周心:被告人徐勤先,根據中華人民共和國刑事訴訟法第119條和中國人民共和國人民法院法庭規則的規定,你在法庭上應當遵守法庭秩序、聽從法庭指揮、如實回答本庭審問。你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:被告人站起來。現在進行法庭調查。首先,由公訴人宣讀起訴書。

(公訴人姜吉初宣讀起訴書)

中國人民解放北京察院起訴書(九零京軍檢訴字第一號)

被告人徐勤先,男,漢族,現年54歲,遼寧省瀋陽市人,小商販出身,學生成份,大專文化,1950年12月入伍,1956年7月入黨,1987年12月任陸軍第38集團軍軍長,1988年9月1日被授予少將軍銜。因違抗戒嚴命令,於1989年5月23日被撤銷軍長職務,同年9月11日被監視居住,1990年1月9日被依法逮捕。

被告人徐勤先違抗戒嚴命令一案由解放軍軍事檢察院偵查終結,並於1989年12月8日授權我院進行審查起訴。

現查明:1989年5月18日16時許,北京軍區政治委員劉振華(當時周衣冰司令員正參加上級召開的緊急會議)等領導同志在軍區辦公樓主樓三層會議室,向徐勤先傳達中央軍委關於調38集團軍到北京執行戒嚴任務的命令。當劉政委等軍區領導同志傳達軍委命令和部署任務後,徐勤先即表示拒絕帶領部隊進京執行戒嚴任務。他說:“動用軍隊這樣的大事兒,我建議由全國人大常委會、國務院全體會議進行討論,究竟這樣做對頭不對頭?這樣的命令應當由國家發佈,以党的名義發佈是不合適的。”他還說:“這樣的行動要經得起歷史的檢驗,一個事件也可能短時間看不清楚,但歷史可以證明,執行這樣的任務可能立功,也可能成為歷史罪人。他聲稱帶武器執行這樣的任務我無法執行,中央軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我的職務,這樣的命令我無法執行,請領導另找別人吧。”在軍區領導的嚴厲批評和指令下,徐勤先到軍區作戰值班室,用保密電話將軍委的命令傳達給了該集團軍政委王福義,並對王說:“我不同意這個辦法,我不能執行這個命令,我不能指揮了,至於誰指揮你們定吧。”當晚七時許,徐勤先在軍區85號樓招待所213號房間給軍區劉政委打電話說:“命令我傳達下去了,今後這件事就不要再找我了。”此後,徐勤先沒有向軍區領導表示過要執行軍委的命令。

上述犯罪事實清楚,有書證和證人證言佐證。徐勤先違抗軍委戒嚴命令的行為干擾了領導機關對戒嚴任務的部署,助長了動亂和暴亂分子的囂張氣焰,增大了部隊進城執行戒嚴任務的困難,嚴重損害了我軍的政治聲譽,在國內外造成了惡劣的政治影響。

被告人徐勤先身為集團軍軍長,在党和國家處於生死存亡的關鍵時刻,臨陣抗命,嚴重地危害了黨和國家的利益,性質惡劣,後果嚴重。根據《中華人民共和國刑法》第79條的規定,比照《中華人民共和國懲治軍人違反職責罪暫行條例》第17條之規定,被告人徐勤先的行為已構成違抗戒嚴命令罪。依據《中華人民共和國刑事訴訟法》第一百條之規定,特提起公訴,請依法懲處。

此致北京軍區軍事法院。

(北京軍區軍事檢察院)

副檢察長:姜吉初

檢察員:蔣繼光、王昌生

1990年1月10日

:被告人坐下。被告人徐勤先,下面本庭根據起訴書的指控,對你違抗戒嚴命令的犯罪事實進行調查。被告人徐勤先,你是什麼時間、在什麼地方、接到誰的通知到北京軍區機關受領任務的?

徐勤先:1989年5月18日中午,接到軍裡面唐明洪副參謀長電話,讓我到軍區受領任務。

唐明洪是怎麼通知的?

徐勤先:電話通知的。

電話通知的,你對唐明洪是怎麼講的?

徐勤先:當時因為我有病住院,他問你能不能去。我說昨天的結石已經排出來了,現在勉強可以,我說我可以去。

你說你可以去?

徐勤先:可以去。

你是什麼時間、因患何病到北京軍區總醫院住院的?

徐勤先:89年5月16日中午前後,由房山280醫院,因為泌尿系統結石轉到軍區總醫院。

住在軍區總醫院哪個科?

徐勤先:內5科。

:內5科。泌尿系結石是什麼時間排出的?

徐勤先:5月17日晚飯前後。

:5月17日晚飯前後排出的。

徐勤先:17日下午,可能晚飯吧,晚飯前還是晚飯後,記不太清了

:結石排出以後你當時的身體狀況如何?

徐勤先:虛弱、疼痛、無力。因為5月15日發病折磨了兩三天。精力不支,身體疲倦,另外身體疼痛的部位很多。

你住院除了泌尿系結石以外,還患有別的病嗎?

徐勤先:當時,3月中旬集訓時摔壞了腳,順便檢查一下。其他的是順便的檢查。

其他的是順便檢查一下?

徐勤先:順便檢查

下麵宣讀38集團軍司令部副參謀長唐明洪證言揭露。

(審判員馮兆山宣讀證言)5月18日12點30分,我接到軍區作戰部彭翠峰同志電話,通知我說:請你軍軍長下午3點到軍區辦公樓主3樓會議室開會。我問有什麼事?他說有任務。同時他通知我馬上派直升飛機到石家莊接27軍秦軍長到軍區開會。接到這個電話後,徐當時因尿道結石在軍區總醫院住院,不在營房,我立即將情況報告了王政委和軍在家的其他領導同志,我建議軍長因病住院,是否請王政委去參加會議?王政委指示:請示一下軍區,我去行不行?我立即打電話,向彭部長作了請示。彭請示軍區首長後,答覆:“政委去不行,必須軍長去。”我把軍區的意見報告了王政委,就立即用電話通知了在軍區總醫院住院的徐軍長。徐當時問有什麼事?我說不知道,可能有任務。徐又問:非要我去嗎?我說已經請示了軍區,軍區說要你去。徐說:那我就去吧。1989年7月28日唐明洪

:剛才宣讀的唐明洪副參謀長的證言揭露,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

唐明洪副參謀長證明:他於5月18日中午12點39分,接到軍區作戰部部長彭翠峰的電話,通知38集團軍軍長下午3點鐘到軍區辦公樓主三樓會議室開會。經向38集團軍政委王福義報告,並經請示軍區後,立即用電話通知了在軍區總醫院住院的徐軍長。你答應自己去軍區開會。被告人徐勤先,你對唐明洪副參謀長的證言有什麼意見?

徐勤先:證言基本上符合事實。就是中間說到最後,問我能不能去,我說了我的身體狀況,我說我可以去,因為前一天結石排出了。因爲當時的病情他也不那麼十分太瞭解。如果是17日晚飯前那種情況,那就去不了。我說了一下病情,我說可以去。這樣的一個情況。那個具體的時間當時我都記不太清了

辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

被告人徐勤先,你到北京軍區機關受領任務,是幾點鐘離開北京軍區總醫院的?

徐勤先:具體時間記不清了,因為接到電話以後呢,就找車,當時車可能到車站送衛生所長可能回營房,當時可能沒有回來。我又找總院請他們派車。要了幾個電話要不通,院長啊,院務處啊,最後又打到軍區作戰值班室,請他們告訴軍區後勤,再轉到總院給我派個車,我去。這中間耽誤了一段時間。以後醫生知道我要到軍區去,就來了幾位醫生幫助我檢查和處置身體。因為當時病後身體比較虛弱,還有不少問題,他們幫我打了針拿了藥處置老半天。以後,車又回來了。回來以後,這個時間具體記不清楚,可能在14點到15點之間吧。

14點到15點……

徐勤先:之間,離開總院,當時沒有看表。

什麼時候離開總院?

徐勤先:因為這裡頭找車、處置,耽誤了一段時間。

最後坐誰的車去的?

徐勤先:我們軍的車。

汽車司機是誰?

徐勤先:平發奎。

平發奎。

你是幾點鐘到達北京軍區機關的?

徐勤先:大約16點左右吧。

16點左右。你在軍區機關什麼地方受領的任務?

徐勤先:當時我記得是三樓西側的一個會議室。

你進的是主樓嗎?

徐勤先:主樓。

主樓三樓西側的會議室?

徐勤先:西側,對。電梯是坐的靠東側的電梯上去,完了以後往西走,會議室是在走廊的南側。

走廊的南側,從東邊的電梯上去,往西走,南側的門進去的。

徐勤先:

你在軍區機關受領任務時,軍區有哪些首長和工作人員參加?

徐勤先:劉政委、李副司令、鄒參謀長,後勤的徐部長不知道是先去的還是會議中間去的,記不太清楚。還有作戰部的部長、其他的有的人面熟,不大認識,叫不上名字,還有幾個人,工作人員。

軍區司令部黃雲橋副參謀長是否參加了?

徐勤先:鄒參謀長,黃雲橋副參謀長。

黃雲橋副參謀長參加了。作戰部的戴鏡生副部長是不是參加了?

徐勤先:這個記不太清楚了。

你認識嗎?

徐勤先:認識。

記不清了?

徐勤先:記不太清了。軍區給你下達任務是從幾點開始的?

徐勤先:沒有記準確時間,現在記不起來,大約16點左右。上去以後,衛戌區領導走了以後,就給我講。

16點左右。給你下達任務的軍區首長是誰?

徐勤先:主要是三位首長講了。

哪三位?

徐勤先:劉政委、李副司令和鄒參謀長。據我當時記得的就是……劉政委講了講情況,說北京遊行示威,比前一些時候有些發展,情況有些嚴重;李副司令主要講戒嚴的具體任務,哪個單位出多少人、出多少武器裝備。鄒參謀長講了些具體的要求。當時記得就是這樣。有個簡要的記錄。

這三位首長主要給你下達的是什麼任務?

徐勤先:戒嚴任務。

到哪裡的戒嚴任務?

徐勤先:就是進京,指定了幾個點,先進入這幾個點,這幾個點,幾個點現在記不太清楚了,有什麼……住到炮兵啊,還住到通訊兵部啊指定了幾個位置,先到這個位置。

進京執行戒嚴任務

徐勤先:對。

調誰進京執行戒嚴任務?

徐勤先:我們軍裡面是一萬五千人,200到300輛裝甲車,其他的攜帶武器、彈藥。

要求幾點鐘、要求什麼時間到北京?

徐勤先:5月20日。

二十日,幾時?

徐勤先:具體幾點記不清楚了,反正就是20號。

你再想想。

徐勤先:記不起來了。

記不起來了。

徐勤先:反正我記得就是20號。這個也許記錄上,當時能夠有。當時也沒有規定具體的出發時間,反正就是20號到。

20號。部隊到達北京後集結地域在什麼地方?

徐勤先:現在都記不太清楚了當時有幾個……軍委總部大院吧

軍部住什麼地方?

徐勤先:總參通訊兵。

我再問你一下,劉振華政委當時是怎麼講的?

徐勤先:準確的記不太清楚了,模模糊糊的印象,大概講的是,說楊(尚昆)副主席召集了幾位軍委總部的領導同志開了一個會,說了說北京當時遊行示威情況有些發展,我們退一退,他們就進一進,有的還出了一些胡耀邦的小冊子,打中央等等。還有一些情況我都記不太清楚了,因為有將近一年的時間了。大概就是這些情況。

審判長:劉政委講沒講戒嚴的問題?是怎麼講的?

徐勤先:這個記不太清楚了反正是戒严哪,或者是劉政委講的,或者是李副司令讲的,或者是两位首长都讲了。我印象裡,劉政委主要講了情況,李副司令具體講了戒嚴任務。

講沒講調哪些部隊到北京執行戒嚴任務?

徐勤先:這個不知道是哪位首長講的,有幾支部隊,有北京衛戌區27(軍)當時還有65(軍)吧。一共當時是出4萬5還是5萬人哪。記不太清楚。27(軍)肯定有。

27(軍)?

徐勤先:哎。65(軍)也肯定有。

65(軍)?

徐勤先:衛戍區

衛戍區

38(軍)

徐勤先:38(軍)

還有別的嗎?

徐勤先:別的記不太清了。

這是劉政委講的嗎?

徐勤先:這我記得好像是李副司令講的。

你記得是李副司令講的。劉政委還講什麼了嗎?

徐勤先:現在記不起來了,當時有個記錄。

當時有個記錄。李副司令主要講的是什麼?

徐勤先:李司令就講了這些具體戒嚴任務。都是他講的,哪個部隊出多少人,出多少武器裝備。住到什麼位置,是他講的呀還是鄒參謀長講的,這個記不太清楚了。

戒嚴部隊出多少人,帶什麼武器裝備,這些都是李副司令講的。

徐勤先:

還有誰講了?

徐勤先:鄒參謀長講了講進駐以後的一些要求。

有什麼要求?

徐勤先:要求是著裝,還有什麼問題,他講了反正六七條,記不太清楚了,應該有個記錄。

也有記錄。別的首長還講了嗎?

徐勤先:記不得了,當時,上次法院同志來問,說徐部長可能講了。以後我回憶回憶,可能徐部長講了,講了幾句,大概是。原來我記不得了,不記得他講了。他講了講,無非就是生活保障上的事。

他講了講生活保障上的事。被告人徐勤先,調38集團軍到北京地區執行戒嚴任務,是哪裡的命令?

徐勤先:當時好像沒有明確說是哪一級的任務。但是我的印象裡頭,這是軍委總部的命令。

軍委總部的命令。

徐勤先:對。

對北京部分地區實行戒嚴,是哪裡做出的決策?

徐勤先:這個當時,印象有點模糊了。就是說楊副主席召集幾個人開了個會,開了會呢,就是說情況有發展,要實行戒嚴,其他的有什麼內容,現在記不太清楚了。

:說沒說對北京部分地區實行戒嚴是哪裡的決策?

徐勤先:好像沒說。

你現在知道是哪裡的決策嗎?

徐勤先:現在當然知道了

哪裡的?

徐勤先:是中央、中央軍委……

還有哪裡?

徐勤先:國務院發佈的。

:被告人徐勤先,北京軍區首長向你下達了中央軍委調三十八集團軍到北京執行戒嚴任務的命令後,你作為三十八集團軍軍長,你當時是如何表示的?對執行中央軍委的命令採取了什麼樣態度?

徐勤先:這些領導同志們講完以後,我首先詢問了一些不大清楚的問題。因為傳達的時候比較快,記錄上也不准,有幾個問題不太清楚。我就把不太清楚這些問題詢問,其中一個印象比較深的就是關於武器裝備的攜帶。武器裝備攜帶,一個是講到各種輕武器、自動步槍、衝鋒槍,帶多少發子彈,手槍啊,其他武器,帶一個基數。當時其他武器這個概念不太清楚,我就詢其他武器包括什麼?首長回答就是輕重機槍,包括高射機槍,其他的。可能當時還有關於裝甲車,可能當時說到坦克六師夠不夠?我當時查了一下那個編制簡表,我看了看坦克六師除了在修的,裝甲車達不到200-300輛。說了說這個。還有幾個問題不太清楚,就是把不太清楚幾個問題都請示完,首長也回答完了,回答完了以後,我就講了,我說這個事情我有不同意見,我說這是個群眾性的政治事件,主要應當用政治辦法來解決。如果要動用武力,我說衛戍部隊、公安、武警,這就夠了。如果非要用野戰軍,我建議把野戰軍調到北京近郊,保持威懾,下面的話我當時沒有講,保持威懾,便於周旋,爲政治解決做後盾,武力做後盾。這都沒有講,保持威懾。我說這麼大的事情,應當很好的研究一下,究竟怎麼樣處理合適。我說我建議中央政治局、國務院、中央軍委開會,開個會好好討論一下,究竟怎麼處理合適。我說軍隊納入國家體制,人大也可以討論一下。我說這個任務和到前線打仗、搶險救災不一樣,那個作戰任務、陣線都比較分明,任務也比較明確。這樣的任務攜帶武器裝備,好人壞人混在一起、軍隊老百姓混在一起,怎麼執行?打誰?接著我表示這樣的任務,這個命令,最好軍區直接向軍裡傳達。以後幾位首長說,你還是傳達吧,你不傳達不好吧?當時我說上級可以任我也可以免我,這個任務執行好了是功臣,執行不好可能成為歷史的罪人。中間可能還說到,幾位首長說你還是傳達吧,下命令不通過你軍長不好吧。我說軍隊是党絕對領導的,不是聽哪一個人的。誰傳達都一樣。當時鑒於這個任務的複雜性,我前面講的,好人壞人混在一起分不清,軍隊老百姓混在一起,發生衝突,分不清,我說這將來出了事誰負責?首長說咱們共同負責,大家負責。我說:話是這麼說,要是出了事還是直接責任者的事。以後說:你還是傳達吧。說了幾次,完了以後我就傳達了。

你還有什麼表示?

徐勤先:啊?

還有什麼表示?

徐勤先:這時候再沒有什麼別的表示了

命令,你是執行還是不執行?

徐勤先:當時我就去傳達命令了。這時候好像沒再說別的。

你再想一想?

徐勤先:沒有,這個事情,當時就記得,沒有別的……沒有再說別的話了

被告人徐勤先,“動用軍隊這樣的大事,我建議由全國人大常委會、國務院全體會議進行討論,究竟這樣做對頭不對頭?”這些話你講了沒有?

徐勤先:沒有這樣講。

你是怎麼講的?

徐勤先:我就講這樣大事,這樣的大事呢,不光指的是要調動軍隊解決這個問題,就是整個就這個事件,我說這樣的一個大事應當慎重地研究解決,所以我建議中央政治局、國務院、中央軍委討論一下怎麼辦好。另外解決這個問題因為已經涉及到動用軍隊的問題了,所以當時我也順便說到了軍隊納入國家體制,人大也可以討論一下。是這麼個順序講下來的。

這個意思還是有的。

徐勤先:啊?

這個意思還是有的。剛才問你這個話,你剛才講的這個,這個意思還是有的。這麼大的事情應該建議討論啊,人大、國務院討論。

徐勤先:這個意思有呢,這裡面的差別挺大。

有什麼差別?

徐勤先:因為我們軍隊是党絕對領導的,無論中央政治局討論、中央軍委討論這個都是可以的。我講的時候意思很清楚,中央政治局、國務院、中央軍委討論。那麼處理這個事件呢,因爲涉及到動用軍隊,如果按照過去的憲法,人大常委也不能討論。現在納入國家體制,當然人大常委也可以討論。最後我還說了一句,不是講科學、民主決策嗎,這也是中央講的嘛,科學民主決策嘛,我就建議中央政治局、國務院、中央軍委討論一下。現在說我是光講到了人大常委會、國務院討論一下子,究竟對頭不對頭?這就把主次顛倒了。作為科學、民主決策程式來講,我們中央討論、中央軍委討論,當然為了決策的科學化、民主化,其他的國家機構也可以在党的領導下進行必要的討論。但是不能把這個黨,把中央政治局和國務院甩掉了,光讓其他國家機關討論了,這就不符合憲法,不符合我們軍隊的傳統,不符合我們軍隊的根本制度。處理這個事件或者涉及動用軍隊,都是同樣的道理。因為憲法都已經載明我們中國共產黨在國家政治生活當中處於領導地位。所以這樣中間提到了國務院,提到了人大常委,是作爲這個,不是居於領導地位來提到的。那麼現在呢把其他的去掉了

你的意思是說,你還講了,就是建議中央政治局討論。

徐勤先:中央政治局、中央軍委。

中央政治局、中央軍委討論。

徐勤先:是。

那麼對北京部分地區實行戒嚴,你知道中央政治局就沒討論嗎?中央軍委沒討論嗎?

徐勤先:當時怎麼決策的,不太清楚。當時聽到一說這樣處理,這個決策究竟科學化、民主化、正確程度與否,就從這個科學民主決策程式……

:你先別往下說,我就問你,你怎麼知道政治局、國務院沒有討論呢?

徐勤先:不知道。

“動用軍隊動用這麼多軍隊全副武裝到北京來,需要有文字命令。這樣的命令應當由國家發佈,党的名義發佈是不合適的。”這個話你當時是不是講了?

徐勤先:這個……到了最後階段,就是這個會議,我提到了,我說這個事情啊,因爲是個大事兒,我建議軍區最好是發個文字命令。這個提到了。講“應當由國家的名義發佈,以党的名義發佈是不合適的”,這個事情呢在我的頭腦裡頭沒有這樣想法,在會議上我也根本沒有這樣講,因為頭腦裡頭根本沒有這樣一個概念。

“現在帶槍開著裝甲車進城對不對?”這個話你講了嗎?

徐勤先:這話好像不是這麼說的吧?要說到的話就是現在,就因為這個涉及到,我提到主要應該用員警,這個群眾性的政治事件呢,應該用政治辦法來解決,就這樣處理,究竟合適不合適啊?說到這個意思,剛纔這個審判長講到這個意思,這個話我不記得是這麼說的,

不記得是這麼說的?

徐勤先:請審判長再說一遍,我再回憶回憶。

:“現在帶槍、開著裝甲車進城,對不對?”

徐勤先:沒有這麼說。要說到,就是說啊,整個用武力解決這個問題,究竟合適不合適?很籠統這麼說吧。

:“用武力解決,這樣做合適不合適?“這話說過,是嗎?

徐勤先:是。

:這樣的行動要經得起歷史的檢驗。一件事也可能短時間看不清楚,但歷史可以證明”,這話你當時說了嗎?

徐勤先:這個是當時說的呀,還是以後說的,記不太清楚。反正這個思想,這個事兒我思想上有,在哪個場合,或者在什麼時候說的,這個倒記不太清楚了。

:這個思想有?

徐勤先:這個思想有。

:“執行這樣的任務,可能立功,也可能成為歷史罪人”,這個話你當時講了嗎?

徐勤先:這個當時講了。

:這個當時講了。“中央軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我的職務”,這個話你當時講了嗎?

徐勤先:當時說到了這個意思,但這個話好像不是這麼說的。

:怎麼說的?

徐勤先:首長說到了,他說……因為我說到了,我說,這個命令最好由軍區直接向軍裡面傳達。首長說:不通過你軍長不好吧?我說:上級可以任我當軍長也可以免我當軍長。可以任我也可以免我。沒有提到中央軍委可以任命我,也可以撤銷我。當時沒有這樣說。

:可以任你,也可以撤你?

徐勤先:也可以免我。

:也可以免你?

徐勤先:嗯。

:哪裡可以任你,哪裡可以免你呢?

徐勤先:這個當時沒有說。

:沒有說?

徐勤先:沒說。

是沒說嗎?

徐勤先:嗯。當然是有任免權的,但是沒有說。

“這樣的命令我無法執行,請領導另找人吧。”這話你當時講了嗎?

徐勤先:這個話是接著,就是說這個任務好人壞人分不清,軍隊老百姓混在一起,怎麼執行?是這樣說的。

:怎麼說的?

徐勤先:就是講到我說這個任務和作戰、和搶險救災不一樣,我說那個任務明確陣線分明,目標也清楚;我說這個任務好人壞人混在一起軍隊老百姓混在一起,這怎麼執行?

這個沒法執行?

徐勤先:好像沒有說沒法執行

:那好人壞人混在一起怎麼著啊?你把後面講清楚一點。

徐勤先:我說怎麼執行?

怎麼執行?

徐勤先:怎麼執行?

當時講怎麼執行還是無法執行?

徐勤先:我記得好像說的是怎麼執行。

:“請領導另找人吧”,這話你講過嗎?

徐勤先:這個話記不太清楚,因為這個事在我的印象裡頭,指揮班子不是一個人,是一個班子。當時好像沒有說到這個事兒。

:記不清了,還是沒有這麼說?

徐勤先:記不太清楚。記不太清楚。這個……好像另找人吧,你這不需要另找,軍長不在有副軍長,還有軍政領導,有政治委員,有參謀長。所以當時好像就沒有說到這個事。*

:被告人徐勤先,你對執行軍委的命令,究竟是什麼態度?軍區首長給你下達了命令以後,你對執行命令究竟是個什麼態度?

徐勤先:當時我對這個問題有些想不太通。理由就是我前面講到的那些。

:你直接回答我的提問。你對執行軍委的命令當時究竟是什麼態度?僅僅是思想不通的問題,還是拒不執行的問題?還是什麼問題?你直接回答這個問題。

徐勤先:當時整個時間比較短,就這麼二、三十分鐘的過程,來不及作深入的、細緻的思考。但是當時一邊說這些話,或者一邊聽著首長傳達這些指示,當時我有個想法,因為我自己思想不大能通,所以當時我個人的想法是,作為38集團軍、作為整個部隊應該執行。我從總院病未痊癒就去接受任務、和在接受任務過程當中我詢問那些不清楚的問題,都可以說明。但是我個人的思想上嚴重的不通。

:你自己思想嚴重不通,你執行命令嚴重不通,你思想嚴重不通,那對這個命令是執行,還是不執行?

徐勤先:作為部隊來講堅決執行。

:作為部隊來講堅決執行。作為你呢?

徐勤先:作為個人來講,我不大想參加。

:啊?

徐勤先:我個人哪,不想參加。

:不想參加?

徐勤先:嗯。

:你僅僅是個不想參加的問題嗎?

徐勤先:是。

:你是38集團軍的軍長,我軍的高級指揮員,你指揮了千軍萬馬,你不是一個普通的戰士,參加與不參加的問題。究竟是什麼問題?是個參加不參加的問題嗎?

徐勤先:當時我個人想,就是個參加不參加的問題。

你是個高級指揮員。你是個集團的軍的軍長,想參加就參加,不想參加就不參加?這個不是個參加不參加這麼個簡單的問題。軍區首長給你下了一個命令、軍委的命令,這是你參加又不參加的問題嗎?這個問題還是要請你直接回答。

徐勤先:當時想是這樣想的,就是作為部隊來講要堅決的執行;作為個人來講我不想參加。然而分析這個問題的實質,作為指揮員你不參加,這意味著什麼?這是有這個問題。

:意味著什麼呢?

徐勤先:啊?

:意味著什麼呢?

徐勤先:意味著就是我個人不執行命令的問題。

:不執行命令的問題

徐勤先:意味著這個問題,但是當時沒有意識到這個問題。

:當時軍區首長給下的軍委的命令、命令38集團軍進京執行任務,這還有意識到意識不到的問題嗎?就是這麼回事情.當時想法是怎麼做的,你如實的向本庭如實陳述。思想嚴重不通,不執行。是不是可以這麼說呢?

徐勤先:是。

軍區首長給你下達了軍委的命令以後,你對軍委的命令表示不執行。對你這種態度,當時軍區首長是否對你進行了批評?是怎麼批評的?

徐勤先:這個記不太清楚,因為一開始我不願意傳達,說你不傳達不好吧,不傳達這個命令,不通過你軍長不好吧。你這樣做不對吧?首長們是有批評這個意思。原話都記不太清楚。

首長批評你了?

徐勤先:嗯。

批評以後呢,你的態度是怎麼樣?

徐勤先:以後我就去傳達命令了。

:那麼你是什麼時間、在什麼地方、採取什麼方法給38集團軍政治委員王福義傳達的軍委命令?

徐勤先:這個時間反正整個的受領任務和中間我發表一些不同意見、這個首長們批評了一些話,以後說你傳達吧,我就傳達了。傳達以後就不知道誰把我領到會議室斜對過,有一個小屋,有個電話。要通電話,給王福義政委傳達的。

誰跟你一起去的?

徐勤先:記不太清楚。

有人跟你去了嗎?

徐勤先:好像有人把我領過去的吧。

有人把你領過去的。知道那是什麼地方?

徐勤先:好像是作戰室一個什麼屋。

作戰室的一個屋?

徐勤先:嗯,但不是作戰室。

啊?

徐勤先:不是作戰室。是作戰室配套的一個小屋。

你給王福義政委是不是把軍區給你下達的命令全部傳達了?

徐勤先:凡是記得的都傳達了。

凡是記得的都傳達了。你傳達的時候、也就是打電話的時候,在場還有別人嗎?

徐勤先:好像沒有別人。有人進進出出的,好像挺忙碌。

不記得有誰在場?

徐勤先:具體的記不清楚什麼人,就進進出出反正有人。

你給王福義政委傳達完命令以後,你還向他講過什麼?

徐勤先:傳達完了以後,大概意思我講,命令就這麼多內容了,我說你們研究執行吧,我說我有些不同的看法,都跟軍區首長都講了。我說這件事情,我也不想參加了。

還講什麼了?

徐勤先:大概意思就這麼多。

是這麼講的嗎?

徐勤先:是的。

就講了你有想法,不想參加了。還講過別的話沒有?

徐勤先:別的不記得了,好像沒有講。

對執行軍委命令的問題,你還有什麼表示?向王福義還有什麼表示?

徐勤先:就是我不想參加了。

你向王福義政委打完電話,傳達完命令以後,你到哪裡去了?

徐勤先:到85樓吃晚飯。

軍區85樓招待所。

徐勤先:

是誰跟你一起去的?

徐勤先:好像是一位處長吧,可能是姓馬的。

:一位姓馬的處長。是軍區機關的嗎?

徐勤先:機關的,作戰部的吧。

作戰部的馬處長,是馬景然處長嗎?

徐勤先:我不知道他叫什么名字。

不知道叫什麼名字。跟你一起過去的。你過去以後安排你住在85樓招待所什麼地方?

徐勤先:記不清了,二樓的一個房間吧。

二樓的一個房間?哪一頭?東邊還是西邊?

徐勤先:西邊。

西邊,二樓一個房間。你到招待所以後,你就到軍區85樓執行所以後,你是在什麼時間、什麼地方又給軍區劉振華政委打電話的?

徐勤先:大概就是19點左右,19點左右,吃完飯了我在上面待了一會兒,想一想這個事怎麼辦?我從總院來的,因為這個任務,反正也都傳達完了,事情也都清楚了,我個人思想來講也是不大想參加。完了以後。軍區讓我在85樓這個意思,當時我理解,就是說你就不要回去了,因為部隊很快就來了。但這時候我思想還有些扣子都沒有解開,想一想,我就給劉振華打個電話。我說政委,命令都傳達完了,我從總院來的,我說我還回總院住院去。以後這個事就不要再找我了。當時劉政委說了幾句,一個是原來可能不知道我原來住院,也批評了我幾句,原話都記不太清楚了。我說首長的意思我都理解,反正我現在思想想不通,這樣我就回總院了。

“命令我已經傳達下去了,今後這件事就不要再找我了。”這話你給劉政委講了嗎?

徐勤先:講了,反正這個話是不是太准了,這個我記不了太清楚,大概是這個意思吧。

:劉政委批評了你嗎?

徐勤先:批評了。

:批評了。

徐勤先:嗯。

:你給劉政委打完電話以後到哪裡去了?

徐勤先:回總院了。

:幾點鐘離開軍區八十五樓招待所?

徐勤先:大概也就是七點鐘左右吧。

:七點鐘左右。

徐勤先:七點鐘左右。肯定七點以後,恐怕是。

:離開招待所以後到哪去了?

徐勤先:回總院了。

關於執行軍委命令的問題,你後來還向軍區首長有過什麼表示沒有?

徐勤先:跟軍區首長以後我就沒有再直接的接觸。

沒有再接觸過?

徐勤先:沒有接觸過。

也就是說沒其他表示了?

徐勤先:直接的沒有。要有的就是王福義跟軍區首長報告。

:我就問你,直接向軍區首長關於執行軍委命令問題,還有什麼表示?

徐勤先:我直接的沒有。

:直接的沒有?

徐勤先:直接的沒有。

:下麵宣讀三十八集團軍警交連班長、徐勤先的警衛員賈語聰(音)的證言和對徐勤先公事包內檔的清理登記第一頁。

(審判員周心華宣讀)5月24日那天,有幾個人進入徐軍長病房說:“徐軍長出院了,你把他的東西收拾一下。”我就收拾東西在拿公事包時,我想這幾個人我都不認識,也不知幹什麼的,其他東西可以給,公事包是徐軍長隨身帶的東西,裡面的東西一定很重要,不能給他們。於是我就謊稱這包是我的,我自己帶回去。他們也就沒說什麼,給我留了下來。我把包帶回去之後,因為當時亂哄哄的,又不知把包交給誰最合適,就把包鎖在一個大木箱裡,決定哪天徐軍長本人跟我要時再拿出來。在五月二十四日至十月十日之間沒有任何人見過此包,也沒有看過裡邊的東西。最近保衛處朱幹事、政治部李主任先後找我談起包的事,我也不瞭解是怎麼回事,就沒有交出來。因為我是徐軍長的警衛員,要對他本人負責,只能把包交給他本人是最合適的。今天專案組的同志找我,說徐軍長要公事包。我不放心,後來經過仔細考慮,還是把公事包交給他們了,因為他們是徐軍長專案組的,又是上級組織派下來的,我應該相信他們。以上是我對公事包的做法。一九八九年十月十日。

徐勤先公事包內檔清理登記第一項,一、八九年五月十八日下午在軍區接受命令記錄,共四頁。

:被告人徐勤先,剛才宣讀的警衛員賈語聰的證言和檔清理第一頁,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

警衛員賈語聰證明:你的公事包是五月二十四日你離開軍區總醫院時,他從你的房間拿走的,後來一直由他保管。十月十日由他交給了專案組。經清理,你的公事包內的檔內有你一九八九年五月十八日在軍區接受命令時的記錄四頁,你的公事包裡面的檔還很多,第一項是你的記錄。被告人徐勤先,你對警衛員賈雨村的證言和檔清理登記,有什麼意見?

徐勤先:沒有當時為什麼把我公事包沒有因為我走的時候,我就說我少了公事包。當時軍區那幾個工作人員有的我也不認識。我就說我還有一個包沒拿走,他說那包是警衛員的。我說不是他的,是我的。當時我也鬧不清楚軍區機關什麼意思。所以我就提到這個事,以後這個包就始終沒在我手,我走的時候也要這個包了。所以具體情況怎麼拿、還留下來的,我就不清楚。

你對賈語聰的證言有什麼意見嗎?

徐勤先:沒什麼意見,我不瞭解。

這個清理登記有什麼意見嗎?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有。

下面宣讀被告人徐勤先在軍區接受命令時的親筆記錄影本。

(審判員周心華宣讀)八九年五月十八日,十六時。劉政委、李副司令員、鄒參謀長、徐部長、彭部長召集會議。三座門參加會議,楊副主席、副秘書長劉凱等同志。楊主要說:學生靜坐絕食六天,我做了忍讓,我進他退。“四二六社論”,二十七日遊行口號改了。我表示與黨一致,提出二十六日社論正確。取消社論、承認民主運動。有預謀的動亂,他不接受。二十六日社論不能動搖。戈(指戈巴契夫)來,許多事不能按計劃執行,紅地毯沒鋪,很倉促。領導人走水泥地是第一次。戈十五來,十四日絕食,統戰部與兩頭協商,讓出地方,但以後又找不到了。那紅十字會章程,絕四天以上要治療,但以後又找不到頭了。但二十二日追悼會後,目的是打倒黨和政府,改組政府、人大常委會和軍委,干擾了會談。看節目,蘇客人理解,有記者問天安門學生的看法,戈認為哪國都有,紅場現在沒有,以後可能有。昨天廣場長安街上百萬,想辦法平息,兩個方案:一個方案再退,答覆學生的要求,現在要追查二十六日社論,要追誰寫的,承認自治組織,做工作的同志很被動。現向北京以外擴散,太原鬧,西安有,各地也來支援。一直鬧下去,像文革。那時毛周說話也聽,現在誰也不聽;第二方案保持第二陣地,發現社論二十六日聲明是正確的,執行二十六日社論精神,壞人在指揮,美國議員、現場有外國人,內部原因:我們工作的問題沒把反污染自由化搞徹底,現在出了不少耀邦的小冊子,依此打中央。二十六日社論,未跟上以後又僵化了。你進他退。收拾局面,實行戒嚴,總理有權戒嚴包括首都總理有權否?法學家正在論證。根據國務院令調一批部隊保衛主要目標、首腦機關。不是單純維持秩序,三至五師,要調五萬人。三十八一點五萬;六十五一萬;六十三一萬;二十七一萬;衛六千。要帶武器,幹部帶手槍,部隊沖、機、彈,要搞點訓練,力求不開槍、不死人,背後是誰不清楚。首都安全要靠北京軍區了。

李:1、裝甲車三百台不少於二百台;子彈、步、沖、首手五十,其餘一個基數。以連為單位攜帶,新兵不參加,易出問題的不參加,組織好留守;2、組織好開進與集結,五棵松以東、軍博、通、炮、裝、警一師、長辛店二十四團,分二批:第一批二十明晚零點零零進入三角通信部駐軍部;3、著裝:帶缸、新式服、背包、皮鞋、炊事車;4、組織好生活,但不能提前耗房子,房子住不上住帳篷,找後勤解決;5、組織好管理,不違背政策,無事故;7、保密,不該給戰士講的,不要講,時間多長不要講,院內指揮、需要時派出小組。

鄒:1、輕武器執行的每人一支;2、帳篷報數字;3、通信搞通。

徐:1、熟食二餐;2、炊事車;3、蔬菜添送;4、自身的衛生保障。

記錄念完了。

下面法庭出示記錄稿,讓被告人徐勤先辯認。你看一下是不是你的記錄?

徐勤先:是。

辯護人看一看。*被告人徐勤先,剛才宣讀的和出示的記錄稿是你在軍區接受命令時的記錄嗎?

徐勤先:是。

:這個記錄稿的前部分,說的楊主要說學生靜坐、絕食六天這前一部分,這誰講的?

徐勤先:劉政委講的。

:劉振華政委講的。第二部分,李,這是指誰?

徐勤先:李副司令

:是李來柱副司令嗎?

徐勤先:對。

:第三部分,鄒,是指?

徐勤先:鄒玉琪參謀長。

:是鄒玉琪參謀長。第四部分,徐,是誰?

徐勤先:徐效武部長。

:徐效武部長,是嗎?

徐勤先:對。

:前面問過你,劉政委講沒講調哪些部隊進京執行任務的問題,你說不記得了,是嗎?這上面的記錄你看了嗎?劉政委講了要調五萬人,38軍一萬五;65軍多少、63多少、衛戌區多少,是劉政委講的。記錄上。

徐勤先:劉政委講的嗎?

:這不是剛纔給你宣讀了嗎?

徐勤先:宣讀了,沒細看。

:這劉政委講的,裝甲車三百台不少於二百台,子彈、步、沖、手五十,這是李副司令講的,這你記錄啊,你的記錄是這樣。李副司令講的第二個問題裡頭,就組織好開進與集結,這裡面第一批20明晚零點零零進入三角、通信部駐軍部,這句話是個什麼意思?

徐勤先:二十就是二十號吧。二十是二十號。

:二十是二十號?

徐勤先:嗯。

:明晚呢?

徐勤先:明晚……

:十八號傳達的命令。

徐勤先:十九號晚上吧。

:十九號晚上吧。零點零零呢?

徐勤先:零點吧。這是二十號零點。

:二十號零點。二十號零點進入三角,什麼意思?

徐勤先:軍隊指揮所。

:進入指揮所,通信部駐軍部。那是不是可以這樣說,就是命令三十八集團軍於二十日零點進入指揮所。

徐勤先:這個記不太清楚。這個記不太清楚呢,就是二十號零點。

:你別記不清了,就你這個記錄的意思吧,是不是應該這麼說?應該用記錄來說吧。

徐勤先:記錄現在看,可以有兩個意思,現在就得憑當時的記憶了。一個是零點鐘就是二十號部隊開始走、開始動。一個是就是零點鐘進入,那就是十九號動。

:零點進入吧,這是二十日零點進入,你就不能說是二十號才走啊。你後面還記了進入,零點進入指揮所嗎,對吧?

徐勤先:這個記不太準確,反正這兩個意思都可能有,那就看看當時是具體怎麼說的,當時的意思肯定都非常清楚。

:下面宣讀北京軍區政治部保衛部(保證字第零一號)鑒定結論。

(審判員周心華宣讀)保證字第零一號鑒定結論北京軍區軍事檢察院蔣繼光同志于一九九零年一月四日送來一份一九八九年五月十八日十六時的會議記錄四頁,以及徐勤先親筆書寫的交代材料十三頁,要求鑒定該會議記錄是否為徐勤先書寫。檢驗會議記錄、筆記書寫速度較快、流利自然、無偽裝、水準較高,字跡特徵穩定。與徐勤先的字跡比對,二者在書寫水準、字的寫法、運筆、搭配、比例等方面反映一致。結論:一九八九年五月十八日十六時會議記錄是徐勤先親筆書寫。

鑒定人:李獻進;覆核人:鐘樹棟

一九九零年一月五日

:被告人徐勤先剛才宣讀的鑒定結論,你聽清了嗎

徐勤先:聽清了。

:剛才宣讀的記錄稿,請被告人徐勤先辯認和技術鑒定,系被告人徐勤先親筆書寫,這個記錄稿記載了被告人徐勤先在軍區接受命令的時間、參加人員、下達命令的情況和命令的基本內容。軍委指示:調三十八集團軍到北京執行戒嚴任務,帶裝甲車和各種武器彈藥於二十日零時進入北京五棵松以東指定地域。被告人徐勤先,你對剛才宣讀的你在軍區接受命令的記錄、和宣讀的軍區保衛部的鑒定結論,有什麼意見?

徐勤先:沒有。

:辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

:下面宣讀北京軍區政治委員劉振華的證言

(審判員馮兆山宣讀)徐勤先拒絕執行中央軍委戒嚴任務的情況:一九八九年五月十八日下午十五時五十分左右,軍區召集正在總醫院住院的徐勤先同志,到軍區辦公樓三層會議室,傳達軍委關於調部隊到北京執行戒嚴任務的命令。當時在場的有我和李來柱副司令員、鄒玉琪參謀長、黃雲橋副總參謀長、徐效武部長等人。首先,我傳達了軍委楊尚昆副主席關於調部隊進京執行戒嚴任務的指示,強調指出:實行戒嚴是中央政治局常委研究決定的,軍隊進京執行戒嚴任務是鄧小平主席批准、中央軍委決定的。還講了執行戒嚴任務的必要性和重要性。而後李來柱決定副指揮員對38集團軍進京執行戒嚴任務提出了具體的部署和要求。

我們談完之後,徐勤先同志說:我有意見,請向上反映。動用軍隊這麼大的事,應由國家人大常委會、國務院全體會議進行討論。這樣做究竟對不對?這樣的命令應當由國家發佈,以党的名義發佈是不合適的。這麼大的事情,為什麼不下書面命令?部隊帶武器、開裝甲車進城對不對?這樣的行動,要經得起歷史的檢驗。一個事情可能短時間看不清楚,但歷史可以證明。執行這個任務可以立功,也可以成為歷史的罪人。帶武器執行這樣的任務,我無法執行。你們可以換人。中央軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我這個軍長。

對於徐勤先同志的嚴重錯誤態度,我和李副司令員及在場的其他領導同志進行了嚴肅的批評教育,並要求他立即把命令向軍裡傳達。最後,他由鄒玉琪參謀長帶領去作戰部向軍裡傳達了命令。他回到接待所以後,又給我打了電話,說:“命令我已傳達下去了,以後這件事就不要再找我了。”在電話裡,我又對他進行了批評教育,並告他:“今後你也不要管部隊的事了,好好去養病去吧。”1989年7月15日。

:被告人徐勤先,注意聽了,剛才宣讀的劉振華政委的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:劉振華政委證明:1989年5月18日15:50左右,在軍區機關主樓三層會議室向你下達了中央軍委關於調38集團軍進京執行戒嚴任務的命令。你當時表示不執行,並說這樣的命令應由國家發佈,以党的名義發佈是不合適的;帶武器執行這樣的任務,我無法執行;你們可以換人,軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我這個軍長。劉政委當即對你進行了嚴肅的批評。當晚你在85號樓招待所又給劉政委打電話說,“命令我已傳達下去了。今後這件事就不要再找我了。”再次拒絕執行命令。你對劉振華政委的證言有什麼意見?

徐勤先:剛才這個證言讀的比較快,當時聽不清,有的還記不太住。

:你聽清楚了沒有啊?

徐勤先:啊?

:你聽清楚了沒有啊?沒聽清楚可以再給你讀一遍。

徐勤先:請再讀一遍吧。

再讀一遍。你注意聽。

(再讀了一遍)

:被告人徐勤先,你聽清了沒有?

徐勤先:聽清了。

:你對劉振華政委的證言有什麼意見?

徐勤先:這件事情,這個怎麼講呢?這個是我記錯了沒說清楚?還是首長沒有記清楚。這個,和這個事後不久……劉政委這個證言是什麼時候寫的?

員馮兆山:7月15日

徐勤先:和事後我回憶不一致,不一致的地方很多了。比較重要的不一致的地方,一個是講到關於動用軍隊這件大事、人大和國務院討論的問題。這個事情呢,我頭腦裡頭沒有這樣的概念,當時也確實沒有說出這樣的話。當時也沒有涉及到這個命令是國務院發佈、不發佈的問題。我說我有不同的意見,就是前面我已經講到的,我說這麼大一個群眾性的政治事件呢,主要應該應該用這個政治辦法來解決。所以我這建議,劉政委說的對啊,是建議,但是建議呢,是建議中央政治局、國務院、中央軍委討論一下,究竟怎麼辦合適。還有,我說軍隊納入國家體制,人大也可以討論一下。不是講科學民主決策嗎?就是使這個決策別發生失誤,主要從這個角度講到了政治局、國務院、中央軍委,還有,說了這麼一段話,這個意思呢,和劉政委講的記的吧、回憶的不那麼太一致。這究竟是當時我說的這個,首長沒有聽清楚,還是首長這個記憶上對我的意思的判斷上有什麼問題,我就說不清楚了。另外這命令發佈問題,也根本沒有講到由國家發佈、以党的名義發佈不合適,這個話也根本還沒有講。還有那個文字命令的問題,我只是到了後期我說了,這個事我說比較大,我說就憑現在我這個記憶、記著這麼點,文字上記這麼點兒,我說將來一旦出現差錯,我說這個不好查。我說最好軍區發個文字命令,並沒有提出質問為什麼不發文字命令,這麼大的事,沒有提這個。當時我記得首長還講了,說咱們過去作戰也可以先下口頭命令嘛,文字命令好多是後發的。我說那也對,以後發也可以。這個……什麼執行不執行的問題,你們另換人吧,另找人吧,這樣一些比較激烈的話,當時沒有出現這個情況啊。當時我是不願意傳達。首長說你還是傳達,你不傳達不好。有一些就說這個茬口吧,我講的這個和首長說的一致,有的地方現在是是究竟誰記錯了、不准,現在不好說。反正有好多事我是沒有想過,也沒有說過,還有好幾處,現在……

:劉政委在證明中講:“我傳達了軍委楊尚昆副主席關於調部隊進京執行戒嚴任務的指示,強調指出實行戒嚴是中央政治局常委研究決定的,軍隊進京執行戒嚴任務是鄧小平主席批准、中央軍委決定的”,還證明你說:“執行這個任務可以立功,也可以成為歷史的罪人。帶武器執行這樣的任務,我無法執行。你們可以換人。中央軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我這個軍長。”還證明你回到招待所以後打電話說:“命令我已傳達下去了,今後這件事就不要再找我了。”這幾點你有什麼意見?

徐勤先:不怎麼太一致。有些事有重大的出入。

:我念的這幾點,你有什麼意見?

徐勤先:不一致。

啊?

徐勤先:不一致。

:哪不一致?

徐勤先:和我當時說的、記得的不一致。

:我念的第一段話“強調指出:實行戒嚴,是中央政治局常委研究決定的、軍隊進行執行戒嚴任務是鄧小平主席批准、中央軍委決定的。”這話你聽明白了吧?

徐勤先:明白了。

你前面講過、說不知道是哪決定的,當時好像不清楚。當時傳達是清楚的;第二點就是“帶武器執行這樣的任務,我無法執行,你們可以換人。軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我這個軍長”,就是你對執行軍委這個命令,你的態度是什麼呢?我無法執行你們換人。軍委可以任我當軍長,也可以撤我的職,就是你對當時執行軍委命令的態度,是這個態度。你前面講的好像是這個意思啊,這意思很清楚的,證明是這個意思;第三點就是你回到85號招待所以後,又給劉政委打電話就是說“命令我已傳達下去了,今後這件事就不要再找我了”,也就是說你再一次拒絕執行命令。這三點你清楚了吧?

徐勤先:聽清楚了。

你還有什麼要說的嗎?對劉政委的證言。

徐勤先:不一致,因為首長凡是講的重要的意思,當時我能夠記的就都記了。首長補充的這些意思,這些證言上這些意思,當時不記得那麼講,如果我要講了這樣一些重要的話,我就都記上了,還是沒有講。但是這個任務是上級的、是軍委的,我的頭腦裡頭這個是清楚的,但是有些話當時怎麼說的,能記的哪怕記兩個字吧,一般的也都記了。沒有記的,當時恐怕沒有完全說。另外說這第二個意思,不是那麼講的,這有出入,差別比較大。

還有什麼?

徐勤先:沒了,反正就這段有點不太那麼一致。

:辯護人對劉政委的證言,有什麼意見?

辯護人:沒有。

:公訴人有什麼要說的?

:沒有。

員馮兆山:被告人徐勤先。

徐勤先:到。

員馮兆山:這個劉政委證明:下令出戰準備命令以後,你不想執行這樣的命令,這個態度也是你本人的態度,說明你本人的態度。這個問題你有什麼意見嗎?

徐勤先:當時態度是這樣的,就是我個人不參加。就是“執行不執行”這個詞從來沒有出現過。在整個的會議上和會議以後,中間出現過的詞就是執行,就是參加不參加這個問題。

員馮兆山:劉政委的證明,是證明你當時對中央軍委命令的態度。你有什麼意見嗎?咱不說具體哪一句話,就總的來講是證明你這個態度,不執行戒嚴命令的這個態度,有什麼意見沒有?

徐勤先:依然是我個人那個態度,對我個人那個態度,我不願意參加。*

:下面宣讀北京軍區副司令員李來柱的證言。

員馮兆山:注意聽啊。

:你注意聽啊。

(審判員馮兆山宣讀)5月18日軍區向38集團軍軍長徐勤先傳達戒嚴任務時的情況:1989年5月18日15時55分,在軍區辦公樓主樓三層會議室,由劉振華政委向徐勤先傳達中央軍委關於調部隊進京執行戒嚴任務的命令。我和鄒玉琪參謀長、黃雲橋副參謀長、徐效武部長、以及作戰部彭翠峰部長、戴鏡生(音)副部長、許厚南(音)處長在場。當劉振華政委傳達完中央軍委命令,我對部隊進京執行戒嚴任務提出了幾點具體要求,並強調指出:戒嚴是中央政治局常委討論決定的,部隊進京執行戒嚴任務是中央軍委下達命令後,徐勤先提出,我有意見,請向上反映,並說,動用軍隊這樣的大事應當由人大常委會討論,少數人決定不對,不符合科學決策、民主決策。像前兩次維持秩序不帶武器還可以,現在帶槍,開上裝甲車進城,對不對?我認為應當正式向上反映。這樣的行動要經得起歷史的檢驗,執行這樣的任務可以立功,弄不好要成為歷史的罪人。帶武器執行這樣的任務,我無法執行。這個命令,我不能執行。中央軍委可以叫我當軍長,也可以撤我的職嘛!這樣的命令我無法執行,請領導另找別人吧。在徐勤先說這些話的過程中,軍區領導對其進行了多次嚴肅的批評和教育,責令其必須堅決地無條件地執行命令。1989年7月15日

:被告人徐勤先,剛才宣讀的李來柱副司令員的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:李來柱副司令員證明:1989年5月18日15時55分,劉政委和他向你下達了中央軍委的命令和部署要求後,你表示:“這樣的命令無法執行,請領導另找別人吧,中央軍委可以叫我當軍長也可以撤我的職。軍區領導對你進行了嚴肅的批評和教育,責令你無條件執行命令。”你對李來柱副司令員的證言,有什麼意見?

徐勤先:整個下來,跟劉政委的證言有些相同的地方,不那麼完全一致的地方也有。這個證言裡頭講到少數人決策,這話我沒講到少數人決策,我就是建議,我說這個事怎麼怎麼決策,前面都已經講過了,不重複了。沒有這麼講。

:辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有。

下面宣讀北京軍區參謀長鄒玉琪的證言。

(審判員周心華宣讀)1989年5月18日下午四時左右,在軍區辦公主樓三層常委會議室,軍區向38集團軍徐勤先軍長佈置進京執行戒嚴任務。參加的人員有軍區劉振華政委、李來柱副司令員、黃雲橋副參謀長、後勤徐效武部長、作戰部彭翠峰部長、戴鏡生副部長和我。由於調部隊進京執行戒嚴任務的情況緊急,所以軍區確定將在總醫院住院的徐軍長請到軍區當面交代任務。由劉振華政委傳達軍委楊副主席關於首都實行戒嚴的指示,並明確了38集團軍進京執行戒嚴維護首都秩序的任務。徐勤先邊聽邊記錄。傳達完了以後,徐勤先把他的記錄重複了一遍,其他同志做了一些補充。接著,徐勤先講:“我有不同意見。這樣大的事情,動用這麼多軍隊,全副武裝到北京來,需要有正式命令。軍隊納入了國家體制,應該由人大召開會議作出決定,由國家軍事委員會正式下達命令。”這時劉政委說:“我和鄒司令員親自去接受的任務,應該完全相信。”徐接著講:“這我相信。但是以党的名義下命令是不合適的。應該正式向上反映。我無法執行這個任務。可以由軍區直接向軍裡下達。現在的情況很清楚,北京市有一千多萬人,有那麼多群眾、學生和國家機關人員都卷了進去。動用全副武裝的軍隊,開著裝甲車來解決,後果是不堪設想的。從軍隊的根本職能來講,也是不能這樣幹的。這不是對付侵略。如果是執行作戰任務,那不成問題。我知道這個問題的嚴重性。既然軍委可以任命我這個軍長,也可以撤銷我這個軍長。執行這個任務可能成為功臣,也可能成為罪人。對於這些問題,現在可能還看不大清楚。但歷史會做結論。”徐勤先講完後,劉政委嚴肅批評了他的態度,指出了他的錯誤,並要求他把軍委和軍區的命令迅速下達到部隊。隨後由我帶他到四樓第二作戰值班室,由作戰部李明堂參謀要通了38集團軍王福義政委的保密電話。徐勤先向王政委傳達了軍區的命令後,我即送他到電梯門口,他就到85樓招待所去了。以上是根據我的回憶整理的,當時我未做記錄,但這與徐勤先當時講話的基本意思不會有出入。

1989年7月12日。

:被告人徐勤先,剛才宣讀的鄒玉琦參謀長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:鄒玉琪參謀長證明:劉政委向你下達了中央軍委命令後,你說以党的名義下命令是不合適的,並表示這個命令你無法執行當即受到劉政委嚴肅批評,並責令你把軍委命令迅速傳達到部隊。隨後他帶你到軍區作戰部第二值班室去,向38集團軍王福義政委打電話,打完電話後你就到85樓招待所去了。你對鄒玉琪參謀長的證言有什麼意見?

徐勤先:有的地方是事實,有的地方就是不一致,有好多話我根本沒說,那時候哪有時間說那麼多的話。什麼以党的名義發佈不合適,這些話沒有說過。這個究竟怎麼回事,說不清楚。

:還有什麼?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

:宣讀北京軍區後勤部部長徐效武的證言揭露。

(審判員馮兆山宣讀)詢問證人筆錄,時間1989年9月18日下午,地點北京軍區85號樓招待所。詢問人吳學寶、蔣繼光,記錄人于新華,證人徐效武,北京軍區後勤部部長。

問:請你談談5月18日下午軍區常委向徐勤先傳達中央軍委關於調38軍進軍執行戒嚴任務的情況。

答:5月18日下午軍區常委開會是從3點開始,開頭由周衣冰司令員傳達了軍委的命令,完了以後周司令去三座門開會去了,其他常委向各大單位傳達軍委的命令,先是向北京衛戍區傳達佈置,接著向38軍軍長徐勤先傳達,時間是4點左右,參加的有劉振華政委、李來柱副司令員、鄒玉琪參謀長、黃雲橋副參謀長、彭翠峰、戴鏡生、徐金河、還有我。一開始劉政委先講軍委關於調部隊執行戒嚴任務的命令;接著李副司令佈置了38軍的任務;鄒參謀長也插了些話。完了劉政委問他都聽清了嗎?徐勤先情緒激動地說:我有意見,政委!這麼大的事情,這麼草率地決定了,少數人就決定了。說這麼大的事,應當由人大、國務院討論決定。面臨這麼複雜的情況,這個任務不能執行,你們另找別人吧。軍委有權任命我當軍長,也有權撤我的軍長。講到這裡,劉政委批評他,說你怎麼能這樣,要與中央保持一致,頭腦要冷靜,不要犯了錯誤。我因為急於回後勤,佈置戒嚴中的有關後勤事情,跟李副司令說了一聲,回後勤部了。後面的情況不清楚了。我當時的印象是徐勤先違抗命令,一直說面對這麼多的人,情況那麼複雜,我不能執行這個任務,領導另找別人吧。

問:徐勤先說這些話是一口氣說的?還是臨時插話說的啊?

答:基本上是徐勤先一口氣講的,別人沒有插他的話。徐勤先當場拒絕執行中央命令是確鑿無疑的。

1989年9月18日

:被告人徐勤先,剛才宣讀的徐效武部長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:徐效武部長證明:1989年5月18日下午軍區常委開會,由周衣冰司令員傳達了軍委命令之後,周司令員去三座門開會。下午4時軍區向你下達了軍委命令,你當場拒絕執行。你對徐效武部長的證言有什麼意見?

徐勤先:和前面的幾位首長差不多,有的地方不一致。

:辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

:下面宣讀北京軍區司令部副參謀長黃雲橋的證言。

(審判員周心華宣讀)1989年5月18日下午3:55,軍區首長在主三樓會議室向38集團軍徐勤先軍長下達戒嚴任務。在場的有劉振華政委、李來柱副司令員、鄒玉琪參謀長、後勤徐效武部長、作戰部彭翠峰部長、戴鏡生副部長和我。當劉振華政委傳達了軍委楊副主席的指示,並下達了38集團軍擔負戒嚴維護首都秩序的任務之後,徐勤先講我有意見,請向上反映:動用軍隊這樣的大事,我建議由國家人大常委會、國務院全體會議進行討論;究竟這樣做對頭不對頭?這樣的命令應當由國家發佈,以党的名義發佈是不合適的。北京市人口上千萬,現在已捲入這麼多人,這麼多學生和國家機關工作人員,部隊攜帶武器、開著裝甲車進城,對不對?應當正式向上級反映。這樣的行動要經得起歷史的檢驗,一個事件也可能短時間看不清楚,但是歷史可以證明。執行這樣一個任務可以立功,也可以成為歷史的罪人。帶武器執行這樣的任務,我無法執行。中央軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我的職務。我可以辭職。劉政委當即嚴肅批評了徐勤先的錯誤言論,指示他先把任務受領下來、傳達佈置下去,並明確指出這個任務是楊副主席交代的,是經過鄧主席批准的。以後因有事我出去了一下,後面的情況我就不清楚了。這是我根據當時的筆記和回憶整理的。基本就是這些情況,不會有大的出入。1989年7月17日

:被告人徐勤先,剛才宣讀的黃雲橋副參謀長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:黃雲橋副參謀長證明:劉政委向你下達命令時,他在場。你說這樣的命令應當由國家發佈,以党的名義發佈是不合適的。你表示無法執行。劉政委對你不執行命令的行為進行了嚴肅的批評。這些情況他當時做了記錄。你對黃雲橋副參謀長的證言有什麼意見?

徐勤先:不完全一致。有的意思對,有的意思不對。

:哪些地方不一致?

徐勤先:什麼以國家的名義發佈啊、人大常委會研究決定啊,這些話都不是這麼說的。

:還有什麼?

徐勤先:沒有。

:辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

:下面宣讀北京軍區司令部作戰部部長彭翠峰兩次的證言揭露。

(審判員周心華宣讀)調查筆錄,1990年1月5日,地點作戰部會議室。調查人:姜吉初、蔣繼光;被調查人:彭翠峰

問:彭部長,請你談一談軍區周司令員、劉政委傳達軍委調我區部隊執行戒嚴任務的命令的情況。

答:89年5月18日上午,周司令員和劉政委到三座門參加軍委召開的緊急會議,當時只有二位首長去的,沒有帶其他工作人員。

問:周司令員和劉政委開會回來後,是怎麼傳達軍委命令的?

答:司令員和政委回來後,當天下午2點零七分,在主樓三層首長會議室召集在家的首長進行傳達,參加會議的有李來柱副司令員、鄒玉琪參謀長、黃雲橋副參謀長、後勤部徐效武部長等,我也參加了。

問:請你把兩位首長傳達軍委命令的具體內容講一講。

答:我有個記錄,劉政委先傳達了軍委緊急會議精神,他說“高自聯”逼迫中央承認他們是合理的、愛國的、自發的,他們有些口號我們接了過來還不行,逼我們承認四二六社論是錯誤的,承認高自聯和工人自治聯合會是合法的。這次戈巴契夫來訪華時就準備清場。他們就絕食,和他們談了若干次,沒有效果。前天晚上紅十字會出面,按國際慣例,絕食4天以上就可以接到醫院去治療,當時他們簽了字。但紅十字會去接人時,又找不到人了。

他們不是要民主,是要打倒共產黨,首先是對準小平、李鵬同志;他們提出70歲以上的都下臺,對戈巴契夫訪華阻礙很大。有人問戈有什麼想法?戈說哪個國家都有,莫斯科將來也可能有。現在社會秩序是亂的,我們怕死人,多次和他們對話、商談,但他們都不接受。昨天有上百萬人遊行。這個情況不能再繼續下去了:一是適應學生要求,退讓,退讓他們還要鬧,而且提出426社論是誰叫寫的?要追查出主意寫社論的人承認他們是合法的。如果退,我們就更被動,這樣下去,實際上是第二次文化大革命又來了。現在誰說話都不算、不聽。這個方案不行。

二是要採取強制手段、公開表態四二六社論是正確的。“高自聯”活動肯定有人指揮,廣場上經常有外國人出現。還是精神污染自由化那一套東西,黨內有的幹部對胡耀邦的變動思想不通。這段時間四二六社論沒堅持下來。現在看來,只有戒嚴。鄧主席已批准調動部隊,部隊來了之後再宣佈戒嚴。部隊主要是守要點,電臺、電視臺、大會堂。執行戒嚴令部隊來要帶武器。調5萬人,新兵不來,不適合來的人可以不來。我們要力求不開槍、不死人,要準備時間長一點,最少三五個月。有人反抗不要緊,因為他們不是愛國的、是要奪權的。軍隊要有威懾的作用,搞個部署計畫。裝甲輸送車、坦克也可以開進來、要安排好駐地後勤、政治工作等各項保障。

劉政委講完後,周司令員接著說:劉政委講的很詳細了,擺在我們面前的不是退,我們已經退到最後了。他們現在不是一般的討價還價,因此我們要硬。中央決定首都北京實行戒嚴,如果不這樣就危害黨和國家的利益,因此要戒嚴,力求早點公佈。武警、公安、解放軍共同承擔。

根據鄧小平主席的決定,軍委從北京軍區調5萬人,三十八軍1萬五千人;六十五軍1萬人;六十三軍1萬人;二十七軍1萬人;北京衛戍區警衛三師5,000人;警衛一師準備1,000人機動;24軍和軍區直屬隊先做準備,暫不動,具體任務等李鵬、喬石確定進的時間和順序,要求快一點,21日淩晨前全部進入完畢。這樣戒嚴令21日早晨就可以公佈,無論如何要搞好保密。部隊帶輕武器、手槍、衝鋒槍、少數輕機槍、子彈:衝鋒槍50發、輕機槍一個基數,以連為單位,裝箱攜帶,到時再分發。裝甲車準備2-300輛,主要放在郊區,視情況執行執勤任務。著裝要戴鋼盔、穿皮鞋、著夏裝、帶背包、洗漱用品、炊事車全部帶上。部隊全部用汽車輸送,部隊先住一些房子,以後再搭帳篷。指揮問題;基址在西山,根據需要在城裡開設指揮組。要趕快給各單位傳達部署任務。兩位元首長傳達的內容基本就是這些。

問;調38集團軍進京執行戒嚴任務,是軍委定的還是軍區定的?

答:是軍委定的調38集團軍進京執行戒嚴任務。由於當時情況緊急,周、劉首長當面接受的任務,沒有文字命令。這是一次。

1989年9月16日詢問筆錄。詢問人:吳學波、蔣繼光,被詢問人:彭翠峰

問:請你談談今年5月18日下午軍區首長向徐勤先傳達中央軍委關於調38軍執行任務的情況。按法律規定,你要如實作證,否則要負法律責任。

答:軍委在下命令後,軍區常委在5月18日下午傳達給各個集團軍。我們原先不知道徐住院,通知了38軍受領任務。38軍唐副參謀長說徐在北京住院。王政委來行不行?我請示李副司令,李副司令說最好徐軍長來。這樣我就打電話給軍區總院,派車給徐來軍區受領任務。來時是15:50左右,在場的有劉振華、李來柱、鄒玉琪、黃雲橋、我、戴鏡生、後勤部徐部長以及我部的徐河南處長。一開始由劉政委傳達軍委命令,這時我出來過一次,不久又回來,進進出出好幾次。劉政委說上午軍委開了會,傳達鄧主席指示,要採取果斷措施,調5個集團軍很快到北京來實施戒嚴。38軍出動15,000人。

劉政委還沒有談完,徐勤先插話說:政委,我有意見,這麼大的事情,不能由軍委決定,應當通過人大或國務院全體討論。劉政委說:老徐,這是鄧主席決定,楊副主席親自傳達的,你還不相信嗎?這時劉政委的態度很嚴肅,劉說了這麼幾句,徐不吭氣了。劉政委又繼續傳達軍委命令,有很大的一段時間是講形勢。徐勤先又插話說,如像前兩次不帶槍還可以,如果部隊全副武裝,還帶裝甲車,我理解不了。劉政委說:老徐,你不要這樣,請你聽我說完。劉政委又講了38軍的任務,駐防區域等具體事項。講到這裡,我又出去,去接衛戍區何尚昆副司令。

這一段時間,主要由李副司令向徐勤先作具體部署,回來時鄒參謀長正在講執行任務的具體要求,說:老徐,軍委的命令你必須得執行,還有什麼不清的沒有?徐說都清楚了。這時我向首長報告:衛戌區何副司令來了。鄒參謀說這樣吧,衛戌區何副司令來了,我帶你去給38軍打電話,傳達任務。打電話時我沒有在場,是鄒參謀長領著他去的。打完電話後,徐勤先就坐車到85樓去了。*

:被告人徐勤先,剛才宣讀的彭翠峰部長的兩次證言,你聽清嗎?

徐勤先:聽清了。

:彭翠峰部長證明:對北京部分地區實行戒嚴是黨中央決定的,調38集團軍進京執行戒嚴任務是中央軍委的命令。軍區向你下達軍委命令後,你拒絕執行。你對彭翠峰部長的證言有什麼意見?

徐勤先:情節上還是有些問題,中間首長們講的時候我根本沒有插話,一直都講完了,我請示完了問題,最後才講的意見。在這個講意見過程當中,就互相之間就有些對話了。我講一講,首長講一講。在首長劉政委講的時候、李副司令講的時候、鄒參謀長講的時候,統統都沒有插話。所以那些情節上他都有些問題。

:辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

:宣讀北京軍區作戰部副部長戴鏡生證言揭露。

(審判員馮兆山宣讀)詢問證人筆錄。1989年9月20日下午,地點:北京軍區機關主樓351房間,

詢問人:吳曉波,記錄人:蔣繼光,被詢問人:戴鏡生(軍區作戰部副部長)

問:今天找你談一談徐勤先的有關情況。

答:已好長時間了,有些情況已印象不深了。徐當時正在總院住院,我打電話告訴徐,讓他下午3時左右到軍區了。徐說沒有車,我又讓他找找醫院給派個車。我也給張金柱打了電話,讓給徐派個車。後來徐還是坐自己的車來了。徐來以後,劉政委、李副司令傳達了命令。徐開頭沒說話,聽了命令後情緒比較沉重,說:我有意見。接著他說,這麼大的事,應該由國務院、全國人大頒佈,現在又帶武器,又開了裝甲車,北京這麼多人湧了進去,究竟對不對?要經受住歷史的考驗。現在我們還一時說不太清楚,我不能夠執行這個任務。他還說軍委可以任命我當軍長,也可以撤銷我,我可以辭職。徐講這些話以後,劉政委及在場的領導當時都愣了幾十秒鐘沒說話,沒想到徐會說這些話。劉政委講道:這是軍委的命令。楊副主席傳達、鄧主席批的。經過首長們做工作,記得徐後來說我可以傳達,但我不參加執行了,我還要住院。這時鄒參謀長說:老戴,你領徐軍長去打電話吧。我在作戰部第二值班室要通了38軍的電話,讓徐進到屋裡頭給38軍打的電話,我就出來了。當時鄒參謀長跟我一起過去的。

問:徐勤先有記錄嗎?

答:徐有記錄。

問:是寫筆記本上記的,還是寫紙上記的?

答:我印象中是兩張紙,我記得徐主要說了這麼幾句,而且是翻來覆去說。從樣子看,他情緒低落,想不通。

問:打完電話,他到哪裡去了?

答:我記得是讓個參謀陪他去的85樓,是誰已記不清了。

問:還有什麼嗎?

答:他給軍裡王政委電話中怎麼說的,我沒聽到。對徐的話,我們都感到很突然。現在我印象最深的是:徐講了一番話以後,場上靜了好長時間,兩位首長也都愣了。停了一會,劉政委就說話了。

1989年9月20號

:被告人徐勤先,剛才宣讀的戴鏡生副部長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:戴鏡生副部長證明;1989年5月18日,他打電話通知你到軍區受領任務。軍區首長下達軍委命令後,你當場拒絕執行。後來他又帶你去軍區作戰部第二值班室去給38集團軍打電話,傳達軍委命令。你對戴鏡生副部長的證言有什麼意見?

徐勤先:有些細節記不太清,我沒有記得他帶我去,當然也可能他帶我去打電話的。另外在總院,不是他打電話給我的,我是接唐明紅電話,但是中間我給軍區作戰部打過電話,請他找車。這個時候是不是就是我找他要車那一次?這個無關緊要,不是他通知我到那開會,是軍裡邊通知我到那開會。

:辯護人有什麼意見?

辯護:沒有。

:宣讀38集團軍政治委員王福義的證言

(審判員周心華宣讀)5月18日下午5點多,在我接到軍區作戰部彭部長傳達的進京執行戒嚴任務的預先號令後,徐勤先從軍區給我打來電話,傳達了楊副主席的指示和軍區的命令,傳達完之後說,我不同意這個辦法,我不能執行這個命令,我不能指揮了。至於誰指揮,你們定吧。我當即通知召開軍常委會,原原本本地傳達了軍委、軍區的指示和命令,並講了徐勤先對執行這個任務的態度。大家對徐的問題作了討論,確定要對他做工作,必須讓他執行命令,參加這項重大的軍事行動。會後,我給徐打了電話,轉達了軍常委的態度,明確地對他說,你個人有意見,可以向上級提出,但必須執行命令。這絕不是個人問題,而是關係全域的大事,會影響38軍這個集體。你確實有病,難以參加所有的活動,但大的活動應參加,具體工作我們做。他說:我感謝軍常委,但我不同意這個辦法,不能執行這個任務。經我一再要求他參加,他的調子態度有所和緩。19日淩晨一時半多,軍常委全會、軍黨委全會結束後,我與吳副政委、張副軍長研究如何處理好這個問題。我們都覺得這樣大的行動,軍長不參加影響太大,必須繼續做工作,促使他參加活動。當時確定由吳副政委去北京軍區總醫院找他談話。19日下午兩點左右,吳副政委回來和我說,我與他談話時,他開始態度不好,經深談後表示同意軍常委的意見,但他說,我已向軍區首長說了那麼一些話。軍區不同意我去怎麼辦?吳說,如軍區不同意就算了。如果同意,就在部隊到京後直接到軍指揮所。他還說了三點意見,一是要搞好動員和大家說明進京是為了維護首都社會秩序,不是鎮壓學生。二是保管好武器彈藥,防止丟失和被盜、被搶。三是防止發生車輛事故,一旦壓死人,他們會說是有意壓人。由於19日上午軍區劉政委已給我打電話,指示我們與徐勤先割斷聯繫,不要去看他,也不要他到部隊來。我就讓吳副政委給徐打電話,用個人的名義把劉政委指示的意思告訴他,以阻止其來部隊。

1989年7月13日。

被告人徐勤先,剛才宣讀的王福義政委的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

王福義政委證明:1989年5月18日下午5點鐘左右,你給他打電話,傳達了軍委調38集團軍進京執行戒嚴任務的命令,並在電話中表示你不執行這個命令,你說:我不同意這個辦法,我不能執行這個命令,我不能指揮了,至於誰指揮,你們定吧。當晚他給你打電話,代表軍黨委常委做工作,你仍表示不執行命令。次日,軍裡又派吳雲中副政委到北京繼續做你的工作。你對王福義政委的證言有什麼意見?

徐勤先:這個大部分意思對,有些話不是那麼說的。

哪些話?

徐勤先:“我不同意這個辦法啊,我不能指揮了,你們另找人吧”,這些話當時好像沒有這樣說。再有一個,中間吳仁宗同志去以後,我也講了這個意思,我說主要是首長能理解嗎?已經說那麼一番話了,你再參加。意思上有出入。

什麼?

徐勤先:這個意思上有出入

周心:那麼你對王福義是怎麼說的?你既然說王福義證言這段,也就是打完電話以後說,你說的這個:“我不同意這個辦法,不能執行這個任務,不能指揮了。誰指揮你們定吧”,你說這話說的不對。你當時怎麼說的?

徐勤先:我當時因為,這個也沒有什麼,電話上好像也沒有時間說更多的話,講完了以後呢,我說你們研究執行吧。我說對這個事情我有點意見,我說我的意見已經跟軍區都已經講過了,我說我不大同意這個辦法。我主要請他們研究執行,這一說完了以後呢,“什麼你們再另找人吧”,你這個事另找誰呀?班子都在是吧?這個話就沒有說,常委都在,常委好好研究執行吧。

辯護人有什麼意見?

辯護人:好,我問一句。徐勤先,剛才這個宣讀的王政委的證言,其中提到了這個吳副政委到總醫院看你的情況,當時吳副政委給你做工作的時候,你做過什麼表示沒有?講過什麼話沒有?

徐勤先:他當時這個意思就是,因為是接著頭一天晚上的事情,因為頭一天晚上,王福義同志跟我講的那番話啊,一開始我就說說這不能出爾反爾,都已經講過了,再變以後有點勉強吧。但是勉強這扣也沒有紮死。第二天吳仁中去了以後呢,就說還是從你還是參加說軍裡面的意見,你參加參加對大局有利,對全域有利,對完成任務有利。我說這個事,我說你看已經跟軍委那麼多首長都已經說了,再來回折騰來折騰去,我說軍區首長能理解嗎?最後他又反復給我說還是參加有利。這樣話,我就最後我說那就這樣子參加,完了以後約定一下子,第二天就是淩晨吧,我直接到軍指揮所去。中間和王、吳大概基本就這麼過程。

辯護人:就是說呢,到最後你已經…..(被審判長喝止)

辯護人請注意,你對王福義政委的證言有什麼意見?

辯護人:好,我問完了。

下麵出示:王福義政委接徐勤先電話時的記錄稿影本。辯護人可以看,被告人徐勤先,剛才出示的記錄稿影本後面有一行用墨塗抹的痕跡,你看清楚了沒有?

徐勤先:看清了。

下面宣讀王福義政委關於電話記錄稿塗抹痕跡的說明。

(審判員周心華宣讀)這是今年5月18日軍區作戰部彭部長、徐勤先給我打來電話的記錄。最後記的幾個字是徐勤先說的,意思是我不同意這個辦法,我不能執行這個任務,不能指揮,至於誰指揮,你們定吧。我交給秘書整理入檔時當時怕洩露出去被社會上壞人利用,也擔心會影響部隊的士氣,就用墨筆塗掉了。89年7月28日

被告人徐勤先,剛才宣讀的王福義政委的說明,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

王福義政委證明:這個電話記錄稿抹掉的最後一行,就是你給他打電話時表示不執行命令的話。你對王福義政委這個說明有什麼意見?

徐勤先:有點出入,我說的沒有……不像他講的這樣,但是我不參加這個意思跟他說了,我有不同意見,我也講了。

塗抹的部分就是說,是你表示不執行命令的話。

徐勤先:這個中間呢,一個是執行、指揮這些詞啊都很少出現,我一般都講的是,當時我的思想就是不參加,就多半用的就是不參加、不想參加。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有。

宣讀38集團軍副政治委員吳潤中的證言揭露。

(審判員馮兆山宣讀)訊問證人筆錄,時間:1989年9月15日上午,地點:北京市北池子44號38集團軍指揮所,

詢問人:吳學勃,被詢問人:38集團軍副政治委員吳潤忠。

問:請你談一談徐勤先5月19日的情況

答:5月18日晚,王政委召開常委會,傳達了軍委的命令,並說徐勤先對這個任務不理解,不能帶領部隊執行任務,誰來指揮,請軍裡定。王政委傳達完以後,常委們很氣憤,罵徐,說徐必須服從38軍,要政委立即給徐打電話,讓他參加。常委會還沒有完,王政委去打電話,沒找到。會議又繼續進行,討論了具體的部署。接著王政委又打電話,我們在會議室等著。王政委打完電話,說徐還沒有轉過來,但表示可以考慮考慮。大家都說,不行,他必須參加。這時劉振華政委打電話詢問:徐勤先傳達了任務沒有?他表示了態度沒有?接著王政委又給徐打了一次電話,這是第三次電話,王打完電話後告訴我們說,徐表示可以考慮考慮(參加)。接著,王福義政委找我,說對徐勤先怎麼處理?我說叫上張副軍長。我們三人簡單地研究了一下,議定由我代表軍常委,到北京去做徐的工作,無論如何得讓他參加,拉也得把他拉出來。第二天19日,我來到了北京,近十一點多鐘到了總醫院。我先問了問了問他的病情,接著轉入了正題,講了常委的決定,我說常委對你的態度很氣憤,這是十分錯誤的。他說:不執行命令是錯誤的,我明白。吃了午飯以後,我又說我來的任務就是轉達軍常委的決定,你必須參加這次行動。他表示那好吧,我可以參加。但我話已經說出去了,軍區還信任我嗎?我說軍區沒說不讓你參加,他說那好吧。我提出讓他出院跟我走,他說不回去了,在北京等;我又提出到工兵處去等部隊,他說沒有必要;我又提出讓他到總參通信兵軍部軍內前指去,他說你放心,我參加,我知道前指的電話,我自己找。接著,他對部隊執行任務的情況講了三條,一條搞好動員、統一思想、講明任務;第二條武器、子彈不發給個人;第三條組織好部隊開進,保證安全。這樣我於4:20左右回到了保定,向王政委作了彙報。王政委說:完了,軍區已通知不讓他參加,切斷他與軍裡的聯繫,他參加是對部隊的干擾。然後王政委又讓我打電話通知徐勤先,我就給徐打電話,但被學生堵住了,一直沒有打成。20日上午,我一邊開會,一邊往北京打電話。上午10點鐘左右,要通了,轉達了軍區不讓其參加的通知,在軍區總醫院治病,不要去部隊了。徐勤先說我明白了。89年9月15日

被告人徐勤先,剛才宣讀的吳潤忠副政委的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

吳潤忠副政委證明1989年5月19日,由於你拒絕執行軍委命令,他受軍黨委指派到北京給你做工作。你對吳潤忠副政委的證言有什麼意見?

徐勤先:大體上符合,具體時間我記不太清楚。似乎是早飯後,再一個就是讓我到部隊去一下,這個事情我記得好像沒說,因為當時情況,我身體也確實不好,再一個我身邊一個人沒有,就讓我去,我也不能去。所以我也沒記得他說過這個事,反正到軍指揮所這是肯定的,我說我想辦法找,我知道到軍委指揮所,明天早晨去。完了。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有

:宣讀38集團軍副軍長劉丕訓的證言揭露。

(審判員周心華宣讀)5月18日下午,王政委讓我們到辦公室開會。下午4點多,徐給王政委打電話,時間較長,最後王政委在電話上說:老徐,你要慎重啊、認真考慮。我當時就覺得有問題。王政委隨後在會上說,徐勤先對執行任務有看法,不想參加。後來王政委和張副軍長、吳副政委商量,讓吳去給徐做工作。第二天,我們按計劃準備車輛、武器、彈藥,部隊開進,沒有受到任何影響。軍前指提前3個小時到達北京。我們到的第二天,總政楊主任去了,說徐不執行任務是犯法行為,講的很嚴肅。1989年8月31日

被告人徐勤先,剛才宣讀的劉丕訓副軍長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

劉丕訓副軍長證明1989年5月18日下午,王福義政委在軍黨委常委會上說你不執行命令,並決定吳潤忠副政委到北京去做你的工作。你對劉丕訓的證言有什麼意見?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有。

下面宣讀北京軍區作戰部馬景然處長證言。

(審判員馮兆山宣讀)5月18日下午晚飯前,具體時間記不清了,在主樓電梯口碰見了鄒玉琪參謀長,他讓我將徐勤先(38軍原軍長)送到85號樓,早點走,休息。根據參謀長指示送到85號樓二層南側一個房間,具體房間號當時沒注意,而後我就讓徐的司機把我送回辦公室樓。以後的情況就不太清楚了。馬景然1990年1月9日*

被告人徐勤先,剛才宣讀的馬景然處長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

馬景然處長證明:1989年5月18日晚飯前,他把你從軍區機關主樓送到軍區85樓招待所休息。你對馬景然處長的證言有什麼意見?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有。

下面宣讀38集團軍司令部管理處汽車排專業軍士、徐勤先的汽車司機平發奎證言揭露

(審判員周心華宣讀)5月18日上午,我開車將軍長家屬接到總院,上午11時送軍長家屬回家,范所長搭車到豐台車站。中午我在軍長家吃的飯,大約下午3點,我開車返回總院,正趕上軍長找車要去軍區開會,我和軍長約下午4時趕到軍區主樓。軍長上樓開會,我在車上等,約6時許看到軍長和軍區機關的一位同志,一起出來陪我們到軍區85樓招待所吃晚飯,並給軍長安排在213房間。飯後,我開車將軍區機關的同志送回主樓。軍長說:我們看完新聞就走。7:40我和軍長開車經長安街回總院。

1989年6月2日

剛才宣讀的汽車司機平發奎的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

汽車司機平發奎可以證明,1989年5月18日下午他開車送你到軍區開會,晚6點許將你送到85號樓招待所213房間,晚7:40又把你送回軍區總醫院。你對汽車司機平發奎的證言,有什麼意見?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有

公訴人對被告人徐勤先違抗戒嚴命令的事實,還有什麼問題需要直接訊問被告人,或者提請本庭審問的?

人:徐勤先,我問你兩個問題第一,5月18號,你向軍區領導表示不參加執行戒嚴任務,是不是事實?

徐勤先:是。

人:第二,在傳達命令時,你不想執行這個任務,講那些話,和軍區當時參加傳達任務的領導批評的你一些話,你有記錄沒有?

徐勤先:沒有。

人:那麼現在你一再講幾個證人的證言,與你當時講的不一致,有什麼根據?是不是靠回憶啊?

徐勤先:靠什麼?靠回憶?

:靠回憶啊,你有什麼根據?你當時沒有記錄啊?現在你講的幾個證人的證言,跟你當時講的不一致,有什麼根據啊?

徐勤先:有些事情這個時間長了記不清,但是有些事情你想了或者你沒說,有些事情根本就沒有想、它就不可能說出來。所以現在這個證言裡頭,就出現了好多根本沒有想過的事情,但是證言裡面有。這個作為我個人來講,我就沒有辦法了。因為我有些話確實沒有那麼說,沒有那樣講。

人:是你自己現在認為的,是不是?

徐勤先:是。

人:問完了。

辯護人,對被告人徐勤先違抗戒嚴命令的事實,還有什麼問題,需要向被告人直接發問,或者提請本庭審問的?

辯護人:我講一個問題;徐勤先,一九八九年五月十八日之前你是否帶領部隊進京執行過任務?

徐勤先:十八日以前哪?

辯護人:對。

徐勤先:十八日以前執行過,從四月份就開始了,4月22、4月27、5月4號三次。

辯護人:執行情況如何?

徐勤先:執行情況那都沒什麼問題,完成了任務。和群眾圍、攔軍車,都沒發生太大的問題。

辯護人:好,我問完了。

被告人徐勤先,調38集團軍到北京執行戒嚴任務,這是中央軍委的命令,在軍區向你下達了軍委的命令後,你作為38集團軍軍長,你為什麼不執行?

徐勤先:因為5月18號這次執行任務,這已經任務算第四次,下達是第三次。第一次是4月22;第二次是4月27;4月27以後沒有回去,中間5月4號還有一次。那麼這次,下達這是第三次下達,要論執行任務的次數呢,這應該說是第四次。在這個之前呢,要來執行任務,第一次問題不大,因為是胡耀邦逝世追悼大會以後送靈,中間圍觀的群眾比較多,保證靈車通過不受阻,和公安、武警、加上群眾共同維持秩序。

第二次是4月27,突然地,下午,迅速調部隊進京執行任務,維持秩序,保衛協助公安武警、保衛重要目標。這次執行任務過程當中,出現了群眾圍、攔軍車這樣一些狀況,說對軍隊這個行動不理解、不支持,當晚沒有返回。住下來住到北京一直到把五一、五四過完。

這部隊來的時候,是沒有帶食品,因為原來就是以為當日完成任務,當日返回。在購買食品當中,商店、群眾採取了不合作的態度:一個是不賣;一個是要高價,總而言之,所遇到的情況就是群眾對軍隊不大那麼太支持、不大理解啊、有情緒吧。有的還向軍隊吐口水,說你們不到前線去作戰,上這幹什麼來發生這樣一些事情。

另外在這個期間,中央領導同志、當然包括輿論,輿論自不必說,也包括中央領導同志,都做過關於解決這個事件的一些重要的指示。總的意思,5月4號以後,這個事情沒有完,但是以後就是要爭取納入民主、法治軌道來解決。對於部隊前幾次執行任務,沒有動刀、沒有動槍、沒有流血、沒有衝突,首長們也都比較滿意。

所以當時存在的期望,就是還是希望中央能夠下一番功夫、多做一點工作,而且從4月底,做工作的情況來看,有明顯的效果。4月27號遊行以後,28、29,國務院發言人袁木做了一次對話。整個社會影響還是很大的。五月四號執行任務過程當中,遊行隊伍並不是那麼很大,響應的人和參加的人都不是那麼很多,因為我從西山去的時候,經過街上也看了看,在這個形勢下,做做工作還是可以解決問題的。

但是不知道什麼原因,從五月四號以後一直到五月十八號這個期間,好像工作停頓,當然現在咱們知道中間有很多複雜的情況,其中包括趙紫陽支持動亂分裂黨。

所以我就覺得該做的工作沒有做,或者做的不夠,勁沒有使完,現在這個事情鬧得這麼嚴重,馬上就要採取用武力這個辦法來解決,搞不好就造成衝突、造成流血事件。

所以對這件事情自己是有意見的、有看法的,所以對這種看法,覺得還是想向上面提出來,想使這個事件、我們建國以來出現這麼個事件,能夠儘量的處理的好一些,別造成歷史上的遺留問題。我基本想法是這樣,就是希望這個問題能夠妥善的得到解決,不至於發生衝突,不至於造成流血事件。因為原來中央領導同志也講了,要做這方面的準備,但是要爭取、要儘量避免不衝突、不流血。但是後面採取這個行動,根據自己看到的情況,特別是四月下旬接觸這些情況,那你帶著武器來了,帶著坦克、裝甲車、輕重機槍,當這個工作當前做到這樣一種程度,群眾情緒很大,非衝突不可,這一衝突以後,你又帶著槍帶著武器,非流血不可。而且5月4號以前因為部隊徒手,它不會造成大的流血事件,就是衝突,做做工作,也不會造成大的流血事件。感覺這一次你帶著武器裝備來了,流血衝突好像是不可避免。思想顧慮比較多,主要是這個問題,所以自己思想上不通,自己表示不願意參加。根源基本上都在這。至於其他的,我以後再說。看還需要我回答什麼問題?

:軍區首長向你下達了中央軍委關於調38軍到北京執行戒嚴任務,你作為集團軍的軍長究竟為什麼不執行這個命令?除了你剛才說的這個考慮以外,還有什麼原因?或者是根本的原因是什麼?

徐勤先:審判長說的這個意思,我還沒有聽太明白,請您再講一遍?

調38集團軍到北京執行戒嚴任務,這是中央軍委的命令,軍區首長向你下達了軍委的命令以後,你作為集團軍的軍長為什麼不執行?

徐勤先:這個問題因為自己思想上,這個……

你直接回答這個問題。

徐勤先:因為思想上不通,所以我就覺得作為部隊作為單位來講,就執行;作為個人來講,我感覺這個問題顧慮比較多,所以就表示不願意參加。

當時就是這麼想的?

徐勤先:當時主要就這麼個想法,就感覺這怎麼辦?作為提這個意見,我有意見,我有不同意見,我把這意見說了,說了也沒人採納,這些意見沒採納,這個結果可能還是這麼個結果,我也再也沒有別的辦法啊。所以作為個人來講,思想不通;作為觀念上來講,我覺得作為一個單位、作為我們党領導這支軍隊,應該是堅決執行任務;作為個人來講呢,所以我就不想參加。思想上有情緒,感覺這麼處理這個問題好像是不合適,而且在這之前很多領導同志都做過表示,準備納入民主、法制軌道解決。有的要什麼通過監察部門,有的通過什麼這個會議、那個會議。這件事情也沒有講到啊,或者是講的那時候那一段時間因為自己在部隊工作或者生病,自己不瞭解。反正自己沒有看到,或者看到的不足,這工作停頓下來了。結果現在呢,鼓出這麼一個大包來,一下子完全用這個辦法解決,又沒有做工作的時間,這不要衝突嗎?要出大事情了。就基於有這麼樣一種嚴重的思想顧慮。

作為一個軍人來說服從命令是天職,作為軍人職責來講下級應該堅決執行上級的命令。你作為集團軍的軍長你對命令有意見、你提出來,那麼在執行上應該怎麼辦?你懂嗎?應該怎麼辦?上級並沒採納你的意見,你作為軍長應該怎麼辦?

徐勤先:這個問題,從黨章、從準則、從我們軍隊這個紀律,都應當是一切行動聽指揮,堅決服從和執行上級命令!但是在當時那個情況下,這個時間也比較短,在那麼短的時間裡得到這麼多情況,做出一種思想反應。當然有些想法在這個之前就有,比方說這個問題希望怎麼樣的解決,因為這個事件沒有完,從4月中旬一直到5月中旬將近一個月這個事件沒有完,有些想法。有些想法呢,但是在這次會議上當時從思想來講呢,不那麼太冷靜,考慮的著眼點主要從黨內生活準則、黨章,從這個角度考慮多一些。

而我們現在是雙重的,一個,作為一個黨員、黨員幹部既要遵守黨章、遵守黨的生活準則,又要服從軍紀服從命令聽從指揮,但是當時呢自己想的那個側面多一點,那個側面多一點,這個作為黨章,作為生活,黨內生活準則,也都是強調在服從的前提下可以提出意見,可以保留啊直到中央。也有地方提到,就是說執行會產生嚴重後果,這種情況除外所以當時自己考慮,這樣一執行非出現嚴重後果不可。所以這種思想在自己頭腦裡也有反映,這就使自己產生了錯誤的想法、錯誤的態度,講了一些錯誤的話,最後出現了這樣一個結果。

給你下達命令以後,你講了不少的話。你當時的主導的思想是個什麼思想?

徐勤先:主導思想,我當時希望主要用政治辦法來解決,政治辦法如果解決不了,中間這個證言裡都沒有,實際上我提到了,把部隊調到北京近郊,保持威懾。那就是說現在這個事情不好辦,把部隊調到近郊,有強大的武力做後盾,再來試圖用政治辦法解決。再解決不了的話,完了以後你再下一步。但這個話現在只有我說了,證人證言裡頭都沒有這個。

那麼,你的意思就是當時這個決策是不正確的,是不是這個意思?

徐勤先:對這個事情反正是有懷疑。

嗯?

徐勤先:對這個事情有懷疑。

對這個事情有懷疑?

徐勤先:有懷疑。就說這樣做究竟對不對啊?這樣做合適不合適?所以要不然話,我就說中央政治局、國務院、中央軍委,好好討論一下子,究竟怎麼辦?怎麼來的?那就顯然對這個事有想法,這樣決策合適不合適?所以提出了決策的科學化和民主化的問題,不是講科學民主決策嗎?所以又建議怎麼辦怎麼辦,而這個建議多餘了。

員馮兆山:當你到軍區接受任務的時候,劉振華政委已經把當前的形勢給你講得很清楚了,也就是說你自己想的這些問題,領導已經給你講的很清楚了。而且是中央、中央軍委根據當時的形勢作出了這樣的英明決策,中央軍委下達了這樣的命令。作為你當時任38集團軍軍長的時候,你對這個問題應該怎麼看?還是個人在提意見的時候?還是在執行不執行的問題上,如果說當時的形勢沒給你交底,你怎麼想都可以。因為黨中央中央軍委已經把形勢說得很清楚了,跟你講得很清楚了,而且決策也下了,命令也下了。作為你38軍軍長來講的話,你應該怎麼辦?是提意見的時候呢,還就是執行的問題呢,還就是懷疑的問題呢,還究竟是反對的問題呢?你要把這個問題,在法庭上給我們說清楚!

徐勤先:劉政委在說情況傳達、傳達上級會議情況的時候,已經說了一些情況,對這個情況不是完全上級沒有交底,上級已經說明了一些情況,但是自己頭腦裡有一些慣性的東西,這慣性的東西呢,就從……軍區讀書班是五月十一號結束的。五月十一號以前,好像這個事基本上就完了,再做做工作就快結束了。結果中間在部隊工作幾天,鼓搗鼓搗,這又起來了。當然起來的背景就不知道了。起來以後,觀察觀察形勢又沒有什麼強有力的人物出來做工作,出來發表講話,或者再進一步的發表什麼東西。當然現在知道了,因為中央內部有情況,不可能有人出來再講話了。但是根據當時情況來看,沒有個強有力的人物出來再進一步做工作。4月底,國務院發言人袁木出來做了一次工作,算結束了。這感覺有問題,所以對這個上級傳達這些東西,自己既相信,但是又看到這工作還不夠,這工作不夠。現在好人壞人現在還沒有分開,群眾情緒還很大,在這樣的情況下就採取這個辦法,就感覺弄不好就要出亂子。

被告人請注意,不要再講過程了,主要回答剛才提出的問題。

員馮兆山:也就是說你對黨中央這個決策、對軍委的命令,當時是什麼個態度?你剛才講是懷疑態度,除了持懷疑態度以外,你還有什麼態度?一個是你想的,一個從你行為上來表示的這個問題。

徐勤先:主要是懷疑態度,就懷疑這樣做合適不合適

員馮兆山:懷疑了以後你又不執行這個命令算什麼?

徐勤先:懷疑,我提出一些意見來,一些建議來,意見建議沒有被採納,傳達了,傳達以後自己表示不願意參加,以後經過軍裡面領導同志給我做工作勸說,思想有所變化,但是已經晚了。

你對軍委的命令,你剛才說了是懷疑,是懷疑軍委命令的什麼?懷疑什麼?

徐勤先:啊?

你剛纔講,你對軍委的命令是懷疑,你懷疑什麼?

徐勤先:主要就是用這個辦法來解決這個事件,當時是不是合適?

懷疑採取這種辦法是不是合適,是不是可以說,你是懷疑這個決策是不是正確?

徐勤先:對於這個果斷措施,是一個怎麼認識的問題,因為當時中央、中央軍委就要確定這麼一個果斷措施來解決這個問題。那麼我對這個有想法,那當然那就是對這個果斷措施有懷疑。

是不是懷疑它的正確性?

徐勤先:那當然是懷疑它正確,懷疑那不就是懷疑它的正確性?懷疑這樣做合適不合適,那當然是對他的正確性有想法。

除了懷疑以外,還有什麼意思?

徐勤先:其他沒別的意思。

你懷疑可以只在執行上、在行動上可以表現為不堅決,但是你的行為,最後是完全拒絕了對軍委命令的執行。這僅僅是個懷疑嗎?

徐勤先:當時我覺得從我個人來講,在當時的想法,還沒有覺得自己是完全拒絕,因爲整個一支部隊,我想作爲部隊來講,執行,堅決執行。但是自己作為一個指揮員來講,不願意參加了。

剛才已經提出來了,你是懷疑還是反對的問題?

徐勤先:主要是懷疑。

有反對的問題嗎?

徐勤先:沒有。

主要是懷疑?

徐勤先:主要是懷疑。

員馮兆山:你懷疑,思想上是懷疑,你行為上表示怎麼個意思?

徐勤先:行為上表示的就是我不願意參加。

員馮兆山:不願意參加?

徐勤先:不願意參加。

員馮兆山:“你可以任命我當軍長,也可以撤我這個軍長”這是什麼意思?

徐勤先:这都是在和首长们在插话过程当中讲,比如說首長出來一句話了,這怎麼說啊,這是?这是这么样说出来的,不是像有些證言裏面講的,說完了以後,統統的是我說,与当时的情况不相符。就是我說一句話、首長說一句話,首長有時候提出這麼問題來說,就說這麼一句話,我怎麼回答?有的時候我不吭氣了,有的時候我說出一句話來。說這個話;都是從這種情況下出來。

員馮兆山:這個話是不是表示你堅決不執行命令的表示呢?

徐勤先:這個表示,當時不是從那個角度提出來的。

被告人徐勤先,你對中央軍委的命令,究竟是懷疑還是反對?這個問題主要的看你的行為。被告人徐勤先你違抗戒嚴命令的行為,有什麼危害後果,這個你知道嗎?

徐勤先:19號十八號晚上十九號王福義和吳潤忠同志給我講,我就反復考慮這個問題所以我考慮我說執行這麼大的任務比如說從對全域有利,因為作為部隊來講,執行參加作為軍長來講,不參加這是影響不好。所以這個肯定有問題,所以這樣的話我就考慮從這個角度來講,這要參加,再一個呢,這個當時這個事情傳到外界這個當時恐怕也有影響。另外當時都在執行戒嚴任務這個自己的這個行為。本來是應該都集中精力搞好戒嚴任務,結果還得處理我這個問題也給上級也增加了很多麻煩。至少是在這幾個方面。

還有什麼?

徐勤先:沒有。*

下面宣讀查獲的部分外電、外報的報導和動亂分子的傳單的題目。

(審判員周心華宣讀)第一部分外電報導題目和摘要:1、1989年5月18日23時美國合眾國際社報導:駐守在北京以南的38軍的將軍拒絕調兵入京的命令;2、1989年5月19日美國有線廣播公廣播公司消息:38軍不願採取行動;3、1989年5月19日20:54美國合眾國際社消息:38軍的高級將領在同中央領導討價還價;4、1989年5月19日23:55美國全國有線廣播公司消息:38軍一位將軍說如果派他的部隊去對付外國侵略者,他將執行命令,但讓他去鎮壓學生,他卻不願意;5、1989年5月19日21時南朝鮮漢城廣播電臺消息:保衛北京的陸軍第38軍向當局通報,沒有鎮壓民主示威的意圖;6、1989年5月20日15:50臺灣自由中國之聲報導:第38軍從軍長到士兵都拒絕進城,他們是好樣的。第二部分部分外報報導題目:1、香港明報1989年5月22日第一版:十萬大軍圍城情況,稱38軍拒絕再度入城的命令,軍長已被革職而另換新人;2、香港明報1989年5月21日第11版:拒絕派兵鎮壓學生,中共一軍頭被撤職;3、臺灣中央日報1989年5月21日第二版:38軍軍長辭職,軍人表示絕不開槍;4、臺灣中央日報1989年5月20日第三版:共軍逐漸接受民主思潮;5、臺灣中央日報1989年5月19日第一版:學生與李鵬談判破裂,中共調軍隊赴北平,遼寧兩將領辭職拒受命令,稱38軍拒絕開進北平後,中共正在調遣更多的週邊軍隊前往北平;6、臺灣中央日報1989年6月1日第四版:中共奪權鬥爭、各懷鬼胎,共軍內訌爆發抗命事件稱38軍軍長因不服從命令而遭撤職;第三部分動亂分子的部分傳單:1、1989年6月2日在天安門廣場散發的油印傳單:一個動人的故事:記38軍軍長被撤職的經過;2、1989年6月3日在天安門廣場散發的油印傳單:歌頌偉大的民族英雄——記38軍軍長;3、1989年5月21日下午,從北京發往陸軍第二十一軍、第十九軍、第四十七軍軍部的同一內容的電報傳單,稱三十八軍連以上軍官一致拒絕鎮壓和平的人民民主運動,煽動部隊不執行命令。4、1989年5月20日晚,從北京發往24軍、27軍、28軍、65軍軍首長、軍政委、司令部、政治部、後勤部同一內容的電報傳單,稱38軍拒絕鎮壓鏟官倒腐敗的請願運動,煽動部隊不執行命令。

下面法庭出示外電外報一些報導和動亂分子的傳單。看一看,從前往後看那都是,翻一翻題目你再看一看。

(徐勤先翻看外電報導和傳單,看完後深吸一口氣。)

被告人徐勤先,剛才宣讀的一些外電、外報的報導和動亂分子的傳單題目,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

:外電外報及動亂分子的傳單,說你和38集團軍抗命拒絕進城,說你是偉大的民族英雄,從而在國內外造成了惡劣政治影響,你對此有什麼要說的?

徐勤先:由於自己的問題,給動亂分子、暴亂分子以及國外敵對勢力提供了更多的造謠誣衊機會。本來這場動亂一直到暴亂,是靠謠言在這支撐著,沒有縫還要叮,中間加上自己這些錯誤,這更加使別有用心的人來攻擊、來造謠,造成了一些機會。

還有嗎?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼要說的?

辯護人:沒有。

下面宣讀北京軍區參謀長鄒玉琪、北京軍區司令部作戰部部長彭翠峰證言揭露。

(審判員馮兆山宣讀)詢問責任筆錄1989年10月6日下午,地點:85號樓招待所204房間。詢問人:石寄祖;被詢問人鄒玉琪,軍區司令部參謀長。

問:今天主要找參謀長談談徐違抗命令後,對38集團軍進行執行戒嚴任務造成了什麼影響?主要是指組織領導方面的影響。

答:好。我與徐交談中有關事實,我有個證明,徐講的話,意思很明顯的違反命令。我帶他到第二作戰值班室打電話,是因為時間很急,讓他趕緊傳達命令。徐打完電話,我又讓作戰部彭部長也給38集團軍打個電話,詢問一下,看是否徐將軍區命令原原本本地傳達完了。完了以後我又建議劉政委也給38軍打個電話,看他們是否已明確了任務沒有。劉政委也打了電話。這是5月18號的情況。5月19號晚上,聽說部隊在開進過程中受阻,我經與軍區領導講明情況,我帶幾個同志到現場看看,正好這會兒楊主任的保衛幹事小胡說:首長也準備到部隊看看,作作指示。晚上12點多鐘,楊主任講了當前的形勢,講了我們不得不採取這樣的措施,我們要有必勝的信心。38軍是個有光榮傳統的老部隊,徐勤先的問題很嚴重。楊主任講:參謀長和張主任要都過問一下38軍的情況,38軍要都向參謀長、主任彙報。20號的上午,周司令又正式宣佈,劉政委在場、在接作戰值班室講的,周說,由陳副政委、鄒參謀長帶領機關的一些同志到38軍去

問:你們到38軍以後,你看到軍的其他領導知道不知道徐違抗命令的事?
答:知道。我找過王福義政委,問過徐前幾次來京執行任務情況。來介紹的人員,王政委與一些老同志介紹過,沒發現什麼明顯的反常情況,但有些情緒波動。

問:如果沒有徐勤先的問題,軍區會派你和參謀政委去38軍嗎?

答:不會的,為什麼別的軍都沒有派人去?38軍當時是個預備隊,更不會派人去。

10月6日

調查筆錄1990年1月5日被調查人:彭翠峰。

問:彭部長,據你所知,徐勤先的問題發生後,對領導的工作有什麼干擾?

答:徐勤先的問題發生後,上級對38軍比較關注,對人們的思想有影響,我們這裡有一份材料你們可以參考一下。5月20號19時,周司令員向軍委彙報情況時,有人說,楊副主席有兩點不滿意:一是對38軍軍長不滿意,說這是不能容忍的,按過去的說法應該嚴厲制裁,關鍵的時候不行。周司令員彙報時還講,北京軍區部隊第一批計畫4萬人,其中38軍1萬五千人被堵、沒到位;113師被堵在長辛店,從保定出發就有1,500多名學生躺在地,結果沒到位。

問:徐勤先問題發生後,38軍的部署有什麼變化?

答:當徐勤先拒絕執行命令後,軍區準備讓黃雲橋副參謀長去38軍指導工作,後又有讓陳副政委和鄒參謀長去的。

問:如果徐勤先不出問題,會不會讓陳副政委和參謀長去38軍?

答:首長也可能去部隊檢查指導工作,但是在這種背景下去,其任務和目的是有所不同的。

1月11日

:被告人徐勤先,剛才宣讀的鄒玉琪參謀長、彭翠峰部長的證言,你聽清了嗎?

徐勤先:聽清了。

鄒玉琪參謀長、彭翠峰部長證明你違抗戒嚴命令的行為嚴重的干擾了戒嚴任務的部署。你對鄒玉琪參謀長、彭翠峰部長的證言有什麼意見?

徐勤先:沒有。

辯護人有什麼意見?

辯護人:沒有。

現在休庭,下午繼續開庭,把被告人帶下去。

(書記員趙永海宣佈)請審判長、審判員入庭。

現在繼續開庭,傳被告人徐勤先到庭。被告人坐下。被告人徐勤先,你對於起訴書指控你違抗戒嚴命令的犯罪事實,還有什麼要說的?

徐勤先:什麼?就是對起訴書裡面的……

對指控你的違抗戒嚴命令的犯罪事實還有什麼要說的?現在還是法庭調查階段。

徐勤先:這個起訴書裡面指控我的這些事實,有這麼幾點,感覺還有些問題吧,或者不大完全相符,或者有些出入。一個是起訴書上一開始,遼寧省瀋陽市人、小商販出身。這個稍微不太符合事實,因為城市沒有正式劃定過成分,準確點說,我是城市平民,因為原來做過店員、做過很小的生意,到解放前,全家都以賣青菜為生。所以各種登記上不一樣,綜合這幾種各種職業,應該是毛主席說的,一般屬於城市平民這個階層。有關一些具體的事實呢,一個說是劉政委傳達完了以後,就表示拒絕帶領部隊進京執行戒嚴任務,這個不完全太相符。首長們講完了以後,我是請示完了一些不明確的事項,提出了一些建議等等,以後才說到了請軍區最好是直接傳達,或者是表示我不願意參加,並不是首長一講完以後,我就馬上就表示拒絕帶領部隊進京執行任務。

還有在調查階段,這也說到了,這裏面多次,或者是提到了,“以党的名義發佈不合適”,這個就是不大符合事實了,我根本沒有這樣想,也沒有這樣說。在同一次會議上,首長們講到說不通過你軍長傳達不好吧,我還講到了,我說軍隊是党絕對領導的、聽黨的話。所以這裡邊就出來一個“党的名義發佈不合適”,由國家這個發佈,這話我怎麼樣也想不起來。頭腦裡面從來沒有,也沒有這樣說;第四個問題,關於講到什麼歷史檢驗啊,或者這一個事情一時看不清啊、還有什麼立功啊或者罪人啊,等等這樣一些問題,這裡面整個用一段話連在一起,反正這些話呢,這個前前後後都有。因為中間說首長有些插話,不是好像連在一起說的。有時候首長說到哪塊完了以後呢,我又說了幾句話。

這樣好像整個的這麼一段話,而且說這個的時候,不是那麼很連貫,因為中間首長有話,首長的話主要是劉政委和李副司令講的,在他們兩位講完了以後,有時候我又再說兩句。我說完了以後,首長們再說,是這樣一個過程;第五點,講到什麼無法執行啊、什麼軍委任命我、撤我,這個也有點不太準確,而且講到執行的問題,主要是講到了一個和作戰和搶險救災做了比較,作戰任務這個陣線分明、敵我清楚、目標明確,搶險救災也是一樣。這些任務攜帶的武器裝備,好人壞人都混在一起分不清;幕後策劃者在哪塊,你看不清。又帶著武器裝備,在這樣一種情況下是怎麼執行?這不是突然冒出來“這樣命令就沒辦法執行”。

這樣這麼一說,就好像一聽到這樣任務就沒辦法執行,沒有前提條件。中間還有很多前提條件是吧?撤我、任命我,任命我、撤我,這我講的是上級,上級可以任我,也可以免我。

其他地方還有說到什麼請另找別人吧,什麼不能指揮了。這個在我的觀念裡頭呢,因為這一個班子是個集體,這一個班子的集體啊,這個因為某種情況出了一個人,這一個人生病或者有其他情況,它不妨礙這個班子這個指揮。當然有影響。上午這個出示這些證件,宣讀這些材料啊,這有些影響,但是不會妨礙班子這個指揮所以這些情況呢,我記不得當時說過了。

還有對王福義同志說那段話啊,也不完全是那樣講的。講到了以後,你們執行吧,我有些想法跟軍區已經說過,一些不同的意見講了,你們研究貫徹執行。也沒有說什麼很多很多的啊,這個那意思是肯定是有了。

還有在這個起訴書裡面講,就是以後沒有再向軍區表示過要執行這個任務。這個在十八號晚上,以後我也沒再講,就說直接向軍區報告啊,因為那天晚上雖然比較勉強,但是王福義同志講他要跟軍區首長報告,而且我問了,我說首長是不是能理解,你現在再去;首長能不能信任你?他都講到沒問題,這個以後我就沒有再講。這裡面如果說我沒有直接的向軍區首長表示過參加,這個是事實,但是間接這個表示,還是有的。所以這個起訴書裡面指控的一些事實吧,有這麼幾點我感覺還是有些問題。當然上午在調查過程當中,這個有的已經講到了。完了。

公訴人、對被告人徐勤先還有什麼需要訊問,或者提請本庭審問的問題

:徐勤先,我問你兩個問題。第一,4月下旬就是89年的4月下旬,鄧主席有一個講話和人民日報“426社論”,你看過沒有?

徐勤先:看過。

:鄧主席的講話和“426社論”,對發生在北京的動亂的性質是怎麼講的?

徐勤先:動亂,極少數人有預謀的。

人:動亂的實質是指是什麼?

徐勤先:兩個否定。

人:哪兩個否定?

徐勤先:否定党的領導,否定社會主義制度。

人:這個當時你清楚不清楚?

徐勤先:清楚。

:第二個問題:你是個老軍人、老黨員,我黨、我軍的組織原則是什麼?

徐勤先:個人服從組織,下級服從上級,全黨服從中央。

:這個明確不明確?

徐勤先:明確。

:當時明確不明確?

徐勤先:當時也是明確的

:那麼作為集團軍的軍長,對待上級特別是軍委的命令,應該採取什麼態度?

徐勤先:作為一項命令來講,應該是堅決執行。

:應該堅決執行,你執行了沒有?

徐勤先:執行過程當中有問題吧,作為個人來講,表示不願意參加。

:什麼時間表示的不願意參加?

徐勤先:會議上和完了以後給劉政委打電話。

:你明確表示不願意參加,是不是?

徐勤先:給劉政委講的是不願意,不願意參加。

:這是一種什麼性質的問題?你在會上和向劉政委打電話表示那個態度,是個什麼性質的問題?

徐勤先:不願意執行這個命令的意思。

:是意思?是行為?

徐勤先:這個情況下,當時還講的是意思。

:你執行了沒有啊?

徐勤先:啊?

:執行了沒有啊?

徐勤先:作為我個人就是那麼個態度了,這個都已經都調查過了。

:個人不執行是吧?

徐勤先:啊?

:是個人不執行吧?

徐勤先:個人就是不願意參加,不參加。

:不願意參加是個什麼意思啊?是給你傳達的命令啊,你這個不願意參加是個什麼意思,能說的清楚嗎?我的發問完了。

:辯護人……

人蔣:我有個問題問一下,今天你說5月18號以後,雖然沒有直接向軍級領導表示願意執行命令,但是間接地講了,你怎麼個間接講法?你委託38軍的領導向軍區領導報告你要參加執行任務了嗎?

徐勤先:當時王福義同志他講他跟軍區報告,所以以後我就沒有再問他是報告了沒有。

人蔣:你委託王福義給你向領導報告了嗎?

徐勤先:當時是那麼說的,十八號晚上就那麼說的。

人蔣:誰說的?

徐勤先:王福義同志講的。

人蔣:你說的什麼?你委託王福義講了嗎?

徐勤先:因為王福義同志他已經要講,我就沒有再委託他,也說得很肯定。

人蔣:你也沒有委託王福義向領導講過。是這個問題嗎?

徐勤先:是。

人蔣:沒了。

:辯護人,對被告人徐勤先,還有什麼需要發問的,或者提請本庭審問的問題?

辯護人:沒有

法庭調查結束。*下面進行法庭辯論,辯論發言,按照公訴人、被告人、辯護人的順序進行,並且可以互相辯論,首先由公訴人發言。

人:審判長、審判員,根據我國刑事訴訟法第一百一十二條的規定,我們以國家公訴人的身份,對被告人徐勤先違抗戒嚴命令一案提起公訴,並出席今天的法庭,支持公訴。經過法庭調查,進一步證明,本院起訴書指控被告人犯有違抗戒嚴命令罪,事實是清楚的,證據是充分的,定性也是準確的,對此不再贅述。下面,我們就被告人的行為的社會危害後果、本案適用法律的問題,以及被告人走上犯罪道路的教訓發表三點意見:

一、被告人徐勤先違抗戒嚴命令的行為造成了嚴重的社會危害後果,必須依法懲處。

去年春夏之交,極少數堅持資產階級自由化的人,同國際上的敵對勢力勾結起來採取各種卑劣的手段,煽起學潮,挑起事端,在北京掀起了一場以打倒共產黨、推翻社會主義制度為目的的政治動亂,進而發展成為反革命暴亂,妄圖建立一個完全西方化的、資產階級共和國。他們成立高自聯、工自聯等非法組織,煽動學生罷課、遊行乃至組織在天安門廣場絕食;他們利用大小字報,製造散佈謠言,瘋狂攻擊四項基本原則,惡毒誹謗党和國家領導人;他們衝擊黨和國家的要害部位,向黨和政府施加壓力;他們四處串聯,妄圖製造全國性的政治動亂,使首都北京陷於了嚴重的無政府狀態,社會秩序發生了混亂,人們的工作生活秩序遭到嚴重破壞,國家政權面臨著被顛覆的危險。面對日趨惡化的混亂局面,党和政府曾在不同層次、通過各種管道採取說服、規勸等疏導辦法,均未能奏效。極少數製造動亂的人,是黨和政府的忍耐克制為軟弱可欺、得寸進尺、不斷擴大事態。

在忍無可忍、讓無可讓的情況下,黨中央國務院決定在北京部分地區實行戒嚴,這是黨和政府為了維護國家的安全和穩定而做出的唯一正確的選擇。然而被告人徐勤先在黨和國家面臨生死存亡的關鍵時刻,竟公然反對黨中央和國務院的英明決策,拒不執行軍委下達的戒嚴命令,其行為損害了黨、國家和人民的利益,危害後果是嚴重的。

一是直接干擾了軍委首長的工作和北京軍區執行戒嚴任務的部署:徐勤先拒絕帶領部隊進京執行戒嚴任務的問題發生後,軍委首長極為重視,及時做了明確的指示,為了消除影響,盡力避免或者減少由徐勤先違抗命令的行為已經造成或可能造成的危害後果,各級領導採取了一系列重大措施,做了大量艱苦細緻的工作:總政楊白冰主任親自到38集團軍前指看望部隊,做穩定部隊的工作;北京軍區的領導多次指示要求38集團軍黨委和領導一定要做好工作,保持部隊的高度穩定,堅決完成軍委賦予的戒嚴任務;為了加強對38集團軍的領導,軍區黨委立即派陳培民副政委、鄒玉琪參謀長到該軍幫助指導工作;38集團軍的領導得知徐勤先違抗命令的消息後,極為震驚和憤慨,立即召開了常委會和師以上幹部會議,傳達了軍委的命令,批判了徐勤先的錯誤,研究部署了任務,制定了應急措施。

當部隊向北京城區開進時,一些人利用徐勤先的問題,進行反動宣傳,並打傷了一些幹部、戰士,部隊嚴重受阻,一時難以到位。幹部、戰士心急如焚,為了表達他們對黨的赤膽忠心,他們自覺地面向天安門方向宣誓,誓死保衛黨中央!誓死保衛社會主義祖國!誓死保衛首都北京!正是由於各級領導高度重視,措施果斷,廣大指戰員忠於黨、忠於人民的高度政治覺悟,才避免了徐勤先的犯罪行為給部隊帶來更大的危害後果。

二是徐勤先的犯罪行為在客觀上助長了動亂和暴亂分子的反動氣焰,給進城執行戒嚴任務的部隊增加了困難。作為一個集團軍的軍長,在關鍵時刻應該到位而不到位,這在客觀上就把自己抗命的行為暴露給了社會。動亂和暴亂的組織者利用徐勤先違抗命令這件事大肆渲染、蠱惑人心、並以此策反部隊,企圖擾亂軍心、瓦解部隊。5月20日後,北京軍區有4個集團軍收到了所謂38軍拒絕鎮壓剷除官倒腐敗的請願運動的反動電報。當戒嚴部隊向城區開進時,一些人攔截軍車,大肆叫喊什麼“向38軍軍長學習,不要進城鎮壓學生”等反動口號。在天安門廣場上,動亂分子還把徐勤先稱為民族英雄,把其作為一面旗幟,大造反革命輿論,從而助長了動亂和暴亂分子的囂張氣焰,給進城執行戒嚴任務的部隊增加了許多難以想像的困難。

三是徐勤先違抗命令的行為,為國際上的反動勢力攻擊我們黨和政府的正確決策,提供了口實。徐勤先的問題發生後,美國、法國、南朝鮮、臺灣、香港等國家和地區的廣播報紙都借此大做文章,惡毒攻擊我們黨和政府,在北京部分地區實行戒嚴的正確決策,為動亂和暴亂推波助瀾,造成了惡劣的政治影響。以上事實說明,被告人徐勤先違抗戒嚴命令的行為,從根本上背離了黨和國家的利益,迎合了敵對勢力的政治需要,後果是嚴重的,是軍紀國法是絕對不能允許的。這裡需要指出的是徐勤先的行為屬於職務犯罪,儘管他本人主觀上並不一定追求這種危害社會結果的發生,也並非有意與敵對勢力裡應外合,但他應該預見到,在那樣一個非常情況下,自己違抗戒嚴命令的行為必然會發生危害社會的結果,然而他卻有意放任這種結果的發生,因此按法律規定,需對這種危害後果有不可推卸的法律責任。

二、認定被告人徐勤先的行為構成違抗戒嚴命令罪的法律依據

首先,被告人徐勤先違抗戒嚴命令的行為具有嚴重的社會危害性。我國刑法第10條明確規定:一切危害國家主權和領土完整,危害無產階級專政制度,破壞社會主義革命和社會主義建設,破壞社會秩序,侵犯全民所有的財產和勞動者和勞動群眾集體所有財產,侵犯公民私人所有的合法財產,侵犯公民的人身權利、民主權利和其他權利以及其他危害社會的行為,依照法律應當受到刑法處罰的,都是犯罪。但是情節顯著輕微、危害不大的不認為是犯罪。

我國這一法定的犯罪概念,清楚的告訴我們犯罪的最本質特徵:是行為的社會危害性。這種危害性,既包括對社會已經造成的實際危害,也包括可能造成的社會危害,因此行為是否具有社會危害性,是我們區分罪與非罪的主要界限。眾所周知,服從命令是軍人的天職,是任何軍隊克敵制勝的重要保證。我軍是在党絕對領導下,執行革命政治任務的武裝集團,對中央和軍委的命令,不允許有絲毫的猶豫和抗拒,必須堅決的無條件的服從和執行。

然而,在黨和國家處於生死存亡的緊要關頭,徐勤先公然違抗軍委的命令,拒不執行帶領部隊進京執行戒嚴任務。這種臨陣抗命的行為直接干擾了領導機關對執行戒嚴任務的部署,在客觀上助長了動亂和暴亂分子的囂張氣焰,為敵對勢力提供了攻擊黨和政府的口實,增大了部隊進城執行戒嚴任務的困難,在國內外造成了惡劣的政治影響,嚴重損害了黨和國家的利益,已經造成了嚴重的社會危害,達到了應當受到刑法處罰的程度。因此認定被告人行為已構成犯罪,不是哪一個人的主觀意志,而是由被告人違抗戒嚴命令的行為所造成的社會危害性所決定的。

其次,徐勤先的行為符合我國刑法關於“類推定罪”的原則。我國是一個人口眾多、疆土遼闊的社會主義國家,不同時期不同地區的情況千差萬別,要求一部刑法把已經發生和可能發生的一切犯罪都毫無遺漏的明文規定出來,是難以辦到的。為了切實保證國家和人民的利益,及時打擊那些法律雖沒有明文規定但確實具有社會危害性的犯罪行為,在堅持罪刑法定原則的基礎上,我國刑法第79條明確規定“本法分則沒有明文規定的犯罪,可以比照本法分則最相類似的條文定罪判刑”。由於類推畢竟是對法無明文規定的行為進行定罪量刑,因此在具體運用上必須嚴格遵守兩條基本原則。一是類推定罪的行為必須具有社會危害性,應當追究刑事責任的行為。

上面已經說過,徐勤先違抗軍委戒嚴命令的行為,具有嚴重的社會危害性,而且已經達到犯罪的程度,應當追究其刑事責任;二是類推定罪的行為必須是刑法分則條文中沒有直接規定的犯罪。所謂刑法分則沒有直接規定的行為,從形式上看它觸犯刑事法律,不是表現在刑法分則的直接規定上,而是表現在最相類似的規定上。正因為這種行為具有危害社會並應當受到刑法懲罰的特徵,因此才依據類推原則追究他的刑事責任。徐勤先違抗戒嚴命令的行為,在刑法分則和作為刑法分則的一個組成部分的軍職罪條例中,都沒有明文的規定,但他與軍職罪條例第十七條規定的違抗作戰命令罪構成的主要件最相類似,因此給徐勤先定罪科刑,符合我國刑法關於類推制度的法律規定;

第三、根據徐勤先犯罪行為的特徵,準確認定罪名。按法律規定,類推的罪名一定要符合犯罪行為的特徵。從本案的實際情況看,徐勤先的問題是發生在黨中央和國務院決定在北京部分地區實行戒嚴的過程中,他的主觀上有違抗戒嚴命令的故意,在客觀上有違抗戒嚴命令的行為,這與軍職罪條例規定的“在戰時違抗作戰命令罪”是有區別的,這裡需要特別指出的是:在北京部分地區執行戒嚴任務,是一次十分艱巨複雜的大規模的軍事行動,戒嚴的成敗,直接關係到黨和國家的生死存亡。制止動亂和平息反革命暴亂,本身就是一次特殊的戰鬥。從這個意義上講,徐勤先違抗軍委戒嚴命令的性質和後果,比違抗某一個具體戰鬥命令而造成戰鬥失利更為嚴重。中央軍委八九5號檔明確指出,對違抗命令拒不執行戒嚴任務的,一般屬於犯罪行為,應依法懲處。根據徐勤先犯罪行為的本質特徵,依據刑法類推的原則,比照中華人民共和國懲治軍人違反職責罪暫行條例第十七條的規定,經報請最高人民檢察院審查批准,對徐勤先以違抗戒嚴命令定罪,既堅持了罪刑一致的原則,又有充分的法律依據。

三、被告人徐勤先走上犯罪道路的教訓。

徐勤先家庭出身貧寒,他15歲就參加革命,是党和軍隊培養起來的高級幹部,特別是党的十一屆三中全會以後,他曾被選送到我軍最高學府國防大學進行深造,短短幾年,他由一個團職幹部晉升為集團軍軍長。就是這樣一個倍受党信任和器重的幹部,為什麼在黨和國家面臨生死存亡的關鍵時刻,竟拒不執行軍委的戒嚴命令,犯了如此嚴重的罪行呢?他的教訓再次深刻地告訴我們:

1、必須理直氣壯地堅持四項基本原則,旗幟鮮明地反對資產階級自由化。當今西方資本主義亡我之心不死,採取各種手段妄圖對社會主義國家實行和平演變,爭奪社會主義佔領的陣地。在這種大氣候下,近些年在我們國內以否定共產黨的領導、否定社會主義制度為主要特徵的資產階級自由化思潮嚴重氾濫。

被告人徐勤先在關鍵時刻,政治立場發生嚴重動搖,與黨離心離德,是資產階級自由化影響的必然結果。近幾年徐勤先放鬆了對馬克思主義基本理論的學習,對宣揚資產階級自由化的書刊很感興趣,特別是對製造動亂的頭面人物嚴家其寫的《首腦論》和《文化大革命十年史》愛不釋手,圈圈點點,從中接受了不少的自由化觀點。他錯誤地接受歷史教訓,先是從思想感情上同自由化產生共鳴,繼而導致政治立場發生嚴重動搖,對動亂採取同情的態度,特別是當鄧小平同志的講話和人民日報4月26日社論明確指出這場動亂的反動實質後,他始終沒有一個明確的態度,直到軍區領導向他傳達中央的指示和軍委的命令時,明確告訴他:在北京部分地區實行戒嚴,是中央政治局常委決定的,這個命令是經鄧主席批准、楊副主席親自交代的,他仍頑固地堅持認為:這場反黨反社會主義的政治動亂,是什麼群眾運動,不能動用武力,並把動亂的升級,歸責於黨和政府的工作沒有做到火候,最後發展到公開違抗命令,用他自己的話來說:這實質上是站到了與黨不一致的右傾立場上,離開了對這個事件深刻的背景分析、階級分析、性質分析,在關係到黨和國家生死存亡的問題上產生了極其嚴重的錯誤認識。

徐勤先的教訓告訴我們,缺乏馬克思主義理論的指導,憑經驗、常識、感情等等幹革命是很難不犯錯誤的,作為一個共產黨員特別是高級幹部一定要充分認識四項基本原則同資產階級自由化的對立,將在我國社會主義階段特別是它的初級階段長期存在,資產階級自由化思潮長期氾濫,必然通過各種管道傳到部隊中來,不僅對戰士和基層幹部有影響,對一些中高級幹部的思想也有不同程度的侵蝕,因此我們要更加自覺的、始終一貫的、長期不懈的把反對資產階級自由化的教育和鬥爭堅持下去。

要做到這一點,就要認真學習馬列主義、毛澤東思想的基本理論,尤其要學好馬克思主義的哲學和鄧小平同志關於堅持四項基本原則、反對資產階級自由化的論述,掌握觀察和分析問題的立場觀點方法,提高政治素質和在複雜的環境裡辨別是非的能力,學習理論要同自己的思想實際結合起來,用正確的理論去糾正自己思想認識上的偏差和錯覺。絕不要自以為是固執己見。只有掌握了馬克思主義的理論,才能在各種複雜的矛盾和問題面前始終保持清醒的頭腦,堅定正確的政治方向。

2、必須堅持黨對軍隊的絕對領導,在任何情況下都做到在政治上、思想上,同中央保持高度一致。党對軍隊的絕對領導是我軍建設的一個根本原則。一個時期以來,一些堅持資產階級自由化立場的人極力宣揚所謂軍隊非黨化、非政治化的反動觀點,鼓吹黨軍分家。在去年春夏之交的動亂和暴亂中,他們以此為理論依據,反對軍隊執行戒嚴任務,妄圖阻止我軍履行捍衛國家政權的職能,徐勤先不僅接受了這種自由化的觀點,而且還把它作為拒絕執行軍委的戒嚴命令的理由。他說:“動用軍隊這樣的大事,應由全國人大常委會和國務院全體會議進行討論,這樣的命令應由國家發佈,以党的名義發佈是不合適的”,懷疑黨對軍隊的絕對領導,在關鍵時刻不能同中央保持一致,是徐勤先走向犯罪道路的一個重要原因。這一教訓再次告訴我們,我們的幹部特別是高級幹部,一定要明確無產階級政黨,要想領導無產階級和廣大人民群眾推翻反動統治、奪取政權、鞏固政權、建設社會主義,都必須掌握軍隊。沒有軍隊,革命鬥爭要取得勝利、勝利了要鞏固都是不可能的。毛澤東同志指出:誰想奪取國家政權並想保持它,誰就應有強大的軍隊。党對軍隊的領導最根本的表現是,軍隊的最高領導權集中于黨中央和中央軍委,不經黨中央和軍委的授權,任何人不得插手軍隊,更不允許擅自調動和指揮軍隊。在改革開放和現代化建設新的歷史條件下,各級領導幹部必須從理論與實踐歷史與現實的結合上,深刻認識保證黨對軍隊絕對領導的極端重要性,做到一切行動聽從黨中央和中央軍委的指揮。

3、必須加強組織紀律性堅決服從命令聽從指揮。古今中外的軍事家,都非常強調軍隊的紀律,強調軍隊的高度集中統一,這是軍隊自身所具有的特殊性決定的,諸如軍令如山倒、長官的命令是部屬的法律、養兵千日用兵一時等軍語,集中的反映了這一點。對違抗軍令者,軍事首長不惜用死刑來制裁,以保證統一意志的貫徹。
毛澤東同志為我軍制定的“三大紀律八項注意”第一條就是“一切行動聽指揮”;鄧小平同志指出:我們這個軍隊,歷來強調一切行動聽指揮,強調自覺遵守革命紀律,不這樣,我們能夠戰勝比我們強大的多的敵人嗎?能夠保證黨對軍隊的絕對領導、貫徹執行党的路線和政策嗎?能夠加速我軍革命化現代化建設嗎?現在有的幹部對上面的指示不執行、命令不服從,這就是不守紀律。正是在這樣一個重大原則問題上,徐勤先採取了自由主義的態度,當軍區領導向他傳達軍委的命令時,他先是思想不通,繼而發展到公開抗拒、並狂妄的提出“這樣的大事應該慎重決策”,並以撤職軍法從事來要脅領導。

各級領導幹部,一定要吸取徐勤先這一教訓,加強組織紀律觀念,要認識到我軍的紀律是建立在高度民主、高度自覺基礎上的紀律,同時它又是嚴格的、鐵的紀律。嚴格的紀律,同正常的民主生活是不矛盾的。作為一個高級指揮官,有參與重大決策、發表自己主張、保留自己意見的權利,但對上級特別是黨中央和軍委的決定,必須無條件地服從、堅決執行,而絕不允許按個人的意願自由言論、自由行動。只有這樣,才能切實做到有令必行有禁必止,保證軍隊的高度集中領導和統一指揮。

4、必須認真改造世界觀,堅決反對個人主義。治亂平暴的鬥爭,對每一個共產黨員特別是高級幹部都是一次最實際的考驗。鄧小平同志指出:經過這次考驗,證明我們的軍隊是合格的,中央一聲令下,擔負戒嚴任務的部隊雷厲風行,立即出動,許多幹部戰士在國事家事面前依然做出以國事為重的抉擇。他們有的推遲婚期,有的放棄休假,有的中斷新婚蜜月,有的身患疾病再三請纓,有的懷揣親人的病故、病危電報踏上征程。他們忍辱負重,不急不躁,打不還手,罵不還口,以實際行動求得群眾的理解。有的無私無畏、慷慨赴死,表現了對黨對共和國忠貞不二、矢志不渝。許多領導幹部特別是高級幹部身先士卒,頂磚雨、踏火海、靠前指揮,出色地完成了這一特殊的戰鬥任務,為人民立了新功。但是作為集團軍軍長的徐勤先,在這場嚴峻的政治鬥爭面前,首先想到的不是黨和人民的根本利益,而是個人的得失。在受領任務時,他就害怕承擔責任,說什麼執行這樣的任務可能立功,也可能成為歷史罪人。

他在檢討書中說:“在這一次生與死血與火的考驗面前,是自己把自己從歷史的列車上甩了下來。鄧主席明確指出儘量避免流血,也不要怕流血,不要怕國際上的反應,不要怕名聲不好。但自己的思想還是比較害怕,怕造成流血事件特別是大的流血事件。一旦這樣,感到黨和軍隊的威信要受影響,作為執行單位和執行人的名聲也會受影響。”一語道破天機,徐勤先當時之所以拒不執行軍委的命令,就是害怕自己的名聲受影響,根本就沒有考慮到國家的安危,從而暴露了他極端利己主義的人生觀。徐勤先給我們最深刻的教訓是,在新的歷史時期,各級領導幹部特別是高級幹部,要使自己始終保持堅定正確的政治方向和高尚的道德情操,戰勝資本主義對我國實行和平演變戰略所施展的各種伎倆,就必須在改造客觀世界的同時,努力改造自己的主觀世界,不斷的清除思想上的灰塵,自覺地用無產階級思想來規範和約束自己的言行,真正做到在任何時候任何情況下,個人利益無條件的服從黨和人民的利益,無私無畏、站穩立場、經風雨而不折、出污泥而不染,這在當前顯得尤其重要。

審判長、審判員徐勤先公然違抗軍委戒嚴命令的行為性質之嚴重、政治影響之惡劣,在我軍歷史上是罕見的。為嚴肅國法軍紀,教育本人和部隊,必須依法懲處。同時考慮到這是一起發生在非常時期的一種特殊犯罪案件,徐勤先在違抗軍委戒嚴命令之後,經集團軍領導做工作,儘管他思想不通,但也曾向軍個別領導表示過,要到部隊去。徐勤先參加革命近40年,曾為部隊建設做過一些有益的工作。這些情況,雖然不影響對被告人犯罪性質的認定,也不是法定的從輕情節,請法庭在量刑時予以考慮。*

下面由被告人陳述和辯護。

徐勤先:來支持公訴的公訴人,我自己本來不想參加這個辯論,因為自己本來就有錯誤,出了問題,今天提起公訴,法庭審理,那麼有事實、有法律,定什麼問題、怎麼樣處理,都是合理的。但是法庭辯論是一個程式,所以這樣的話,自己就講點意見,因為自己是出了問題,在這樣一種情況下來講,不一定恰當,供法庭考慮。

第一個問題、來講一講關於“比照類推”的問題。剛才公訴人已經講到這個問題,在這個之前也跟我講過,依據什麼、怎麼樣類推,經過哪一級批准。自然有比照和類推的道理。講一講我自己的意見我就認為,這個比照、這個類推啊有一些勉強,因為戒嚴任務有它的特殊性,它和作戰任務不一樣。

作戰任務,任務目標、陣線是十分清楚的;而這個戒嚴呢,是一個政治性非常強,而且在一個少數人製造這個動亂當中,又有相當多數群眾這個參加,好人壞人混合在一起,軍隊和老百姓混在一起是吧,陣線不清楚,那麼這樣講呢,這個性質差別又是很大的。有些問題發生在戒嚴當中,如果發生在這個作戰當中,就根本不可能發生。這是個作為執行戒嚴任務這一種特殊情況。在接受這個任務實施以前和這個過程當中,也不一樣,因為比照這個條例17條是吧,那講的是作戰中,作戰中啊,那就說你有一些事情不願意採取措施。

而這次呢,這個我的問題啊,發生在接受任務這個階段,也就是說5月18日下午這段時間裡頭。再一個呢,目的也是不一樣的,是吧?作戰過程當中如果發生這類問題,那麼說或者是貪生怕死,或者是為了保存實力,而這個戒嚴任務,更多的是考慮政治上的後果,它所可能引起的這個問題也比較多。所以這樣這個比照類推,這個是否完全恰當?因為既然比照類推,自然有比照類推的道理,是不是完全恰當,這個請予以考慮。就說上述這樣一些特殊情況,這是我講的一個問題。

第二個問題呢,就說這個在法庭調查當中,5月18日我發生問題的時候,講過這些話、說過的一些事,和證人證言不完全一樣,這裡邊,我想請法庭啊,當然也請公訴人考慮。因為事情發生在5月18日,而我這問題又比較特殊。在這個之前,這個那麼說證明我問題這個的人,大多數都是軍區的領導,就說軍區領導在這個之前,就說7月份,7月中旬以前,有的到了9月份、10月份,那麼說這裡面已經開過多少次會議,有些情況就交流過多少次,是不是?就是還原來當時5月18日發生那個情況、當時那個情節、當時講的那些話,因為現在我已經是有口難辯。

參加會議的那就是我自己,38集團軍啊,而證明我在會議上講了什麼話、做了什麼事啊,多半都是軍區裡領導、二級部長。這裡面,當然不存在什麼其他問題,主要是因為時間長了,中間開過一些會,或者是研究我的問題怎麼樣的處理,就有些情況都交流過了啊。還是不是原來5月18日這個事情的本來面目,是吧?沒有說過的話,沒有想過的話,現在都出來了,所以我實在是理解不了。

第三個問題呢,剛才這個檢察長啊,支持公訴,講到了一些後果的問題。我感覺不管怎麼樣,這個問題還是由我引起的,對這個社會後果造成的不好的影響,我自然應該負主要責任。但是這個後果我也請法庭考慮一下,因為有些後果呢,是因為我有了問題,組織上採取了一些反措施是吧?就說這個後果啊,這個引起,不能夠完全歸到我自己頭上來。因為在當時那樣一種複雜的這個社會條件下,那就說你沒有縫隙,各種別有用心的人啊還要找一個縫隙。那麼說你有點縫隙,他更加興風作浪。所以把這個後果,這個問題啊多半歸到我的身上,我感覺不公平。因為當時這個謠言很多啊,在事後啊關於平息這個事件報告當中,有大量的文章啊,或者是報告裡邊都提到了這個事情。的確是因為有我的問題,但是現在不能夠因為就說是動亂分子也好、暴亂分子也好、國內外的電訊也好,講了一些什麼話,現在統統都歸到我的頭上。那麼說敵人是不是還造什麼別的謠了,那麼說是不是也有這個事實啊。另外就是我這些事究竟是不是完全是那麼回事,今天上午這個法庭上都宣讀了一些材料了,我也翻了一下子,沒有仔細地看,就說有些事,它不是事實,這是當時那種環境和背景條件下所產生的。這是第三點。

第四點意見,剛才這個公訴人,分析到我這個問題的時候,我覺得講到一些地方講的還是很有道理的,但是有些地方也有這個不完全符合事實。比如說嚴家其的書,嚴家其的書在這個事情發生以前,我就根本沒有看,或者翻了幾頁,而是把我隔離起來了以後、把我看管起來了以後,因為沒有書看,完了以後再順便翻了翻,所以把這個事件發生以後就看這書,歸到發生原因上,這有點不符合事實。這幾年要看書,主要的還是馬列的書,各種軍刊、這個這正規刊物,其他亂七八糟,我沒時間看啊,就是這次把我看管起來了以後呢。才有時間,就翻一翻,反正翻一翻,我當時嚴家其是什麼人還不知道,是一直到6月6月是陳希同做報告才知道他是個什麼人。這個之前他是什麼人的,根本不知道。書也不是我買的都是公家買的。所以這個就比較勉強一些啊,也可能是誤會啊,因為在這個期間,沒有書看了,是吧?順便拿了本書,看一看。

第五點,我想講講我在這次會議上,發表了很多錯誤的一些意見,發生了嚴重的問題這個請法庭予以考慮。當時這個軍區首長,把命令傳達完了以後,我詢問了一些不清楚的問題,首先我是作為的,這個意見和建議,提出的好多問題,當然問題發生以後這個一段時間,我認為我基本上還是對的,這個是我說當時的想法,因為說我作為一個黨員,作為一個黨的這個高級幹部,作為一個黨員幹部,你說提提點意見都不行,所以自己還認為自己是對的,當然今天看起來,自己這個大前提還是錯了啊,大前提還是出了問題。我覺得把這個意見建議部分,和這個其他的錯誤部分,和以及這個指控我其他問題啊,這個犯罪啊,這個都可以。但是我覺得,把意見和其他的問題還是應當加以區別。如果說我這個會議上我不該提,或者是場合不對,或者是意見本身不對,批評啊、糾正,我覺得都是對頭的。但是完全當成問題,完全當成罪來對待,我覺得是不是也不一定完全恰當,因為我們這個黨章準則是吧?固然這是一次啊佈置這個戒嚴任務這麼一次會議,但是這個軍隊是党絕對領導的,許多問題得按照黨的原則來辦事。而我們黨章、生活準則都規定黨員對党的方針政策決議有不同意見,可以在黨的會議上提出,也可以向各級黨組織直至中央做口頭或書面報告。是吧?

黨組織應當歡迎黨員群眾的批評和建議,同時要求黨員對党要忠誠老實、言行一致,不隱瞞自己政治觀點。是吧?不歪曲事實真相,對黨的決議政策如果有不同的意見,堅決執行的前提下,可以聲明保留,並且可以把自己的意見向黨的上級組織直至中央提出。同時還要求每個共產黨員特別是各級黨委的成員。都必須堅決執行黨委的決定,如有不同意見,可以保留,或者向上一級黨委提出聲明,但在上級或本級黨委改變決定以前,除了執行決定會立即引起嚴重後果的、非常緊急的情況之外,必須無條件的執行原來的決定,我覺得這個黨章這個準則,這個基本上是兩個精神啊,一個是就說在有不同的意見或者建議,應當向上級黨委組織,不隱瞞觀點提出或者聲明保留。

第二點強調就是必須在堅決執行前提下,第三點也說到了以後,在這個非常緊急的情況下,如果要執行,會引起嚴重這個後果除外。自己在這問題上,覺得對於這個黨章啊、準則這些條文理解上,是不完全的,在堅決執行的前提下來提出各種這個意見和建議,是不夠的啊,但是當時也想到了,就說這個事情這麼一做,這不馬上這嚴重的社會後果就出來了,所以自己的思想顧慮比較多,所以考慮引起這個嚴重的後果,這個後果就是這個大規模的衝突,或者是留血事件。而這種結果從我主觀意願上來講啊,是不願意看到的。當聽到中央首長講啊,說這個沒有流血,沒有發生衝突,一塊石頭落了地。下一步怎麼解決,自己講的、感到很好,當然以後情況發生變化,思想沒有跟上來,那還是自己的問題、自己有錯誤啊,這是肯定的。該不該提?提的場合對不對?以及意見本身對不對?但是今天問題既然已經發生,我覺得我們法庭也好、公訴人也好,還是應當全面地看一個人,

比如說一個人對党是不是忠誠,要看他對黨的思想政治路線、方針、政策的貫徹與執行,是吧?也要看有不同意見,能不能夠如實地向黨組織反映。這個毛主席、鄧主席過去都講過啊,為了這個疏通黨內管道,鼓勵發表意見,用“五不怕”的精神來提倡講出不同的意見。說自己在這問題上,如果說我理解不對,這個可以。

但是自己也確實想到,我們黨的歷史上出現過失誤,我剛才同意公訴人對我這個事情分析和指控,就說過去有誤失誤,那說原因之一就是有好多意見得不到反應,就是其中之一吧。原因之一也就是好多意見得不到反應也就是好多意見得不到反應,一想到你說又關係到黨和國家這麼樣一件大事,是吧?建國40年來碰到這麼一件大事,說從心裡來講,確實希望好,我覺得這一點全黨的同志恐怕都是這樣一個想法啊,當然某些側重點可能不完全一樣,都希望處理好是吧?把這樣一種願望完全當成問題來指責,這個是不是完全妥當啊?這個請予以考慮。

或者說,就說提出這個問題完全是從個人利己主義出發,我覺得這個似乎也有點過分。當然鄧主席確實講過,就說不要怕這個什麼社會反應、不要怕輿論不好、不要怕名譽不好,就是這意思出了流血事件以後,你不要怕這個怕那個,這個在自己思想上是有,但是更多的,那麼更主要的還是我們這個黨啊、還是我們這個軍隊啊,是吧?黨和軍隊當時是考慮的側重點,是吧?建國40年來我們出現過一些失誤,如果說大事情,恐怕這是一件最大的事情啊。其他的事情哪有這麼大?那是最大的一件事情。當然還有十年動亂,那也是比較大的一件事。

所以從內心,確實是希望把它處理得很完滿,但是考慮的角度、考慮的高度、考慮的深淺這個自己可能都不對啊但是願望和動機目的,還是從我們黨和國家長治久安考慮,那雖然當時沒有正式討論過,我覺得有的時候,這個因為正在讀書,從大家這個願望有時候講一講,還都希望處理好,當時領導同志也講,對國際上這個反應也認為這是比較好的啊。傳達的時候啊,也講到這個問題。

所以自己反反復複的想,說過去有過一些失誤,自己看出來了,但是不敢講,反正事後檢討,感到三中全會以後,我們黨恢復了實事求是思想路線,撥亂反正,有些問題看出來了,就或者自己認為,自己認為這個問題啊,有這樣妥當或者這樣不妥當,把它講出來。我這次講出來了,還是講錯了啊講錯了。因為自己考慮問題的角度不對、高度不對、深淺程度也不對。不是站在中央的角度來考慮的,所以自己提出這些問題,發表這些意見啊,那和上級所想的所決策的可能是謬之千里。

最後一點意見,就是我自己這個問題吧,這個能否當成罪、罪輕罪重,我覺得這個思想問題和政治問題、錯誤和罪行沒有不可跨越的鴻溝,有些問題是思想問題,但是也可以轉化為政治問題;有些問題呢,是錯誤也可以過了一定的度,就可能變成罪行。所以自己的問題啊,現在處於什麼樣的狀態,因為正式逮捕我的時候,已經給我講了,你對這問題怎麼認識的?我也講到這個意見,所以我對自己的問題的嚴重性,還是有足夠的認識,指控我的一些事實,除了我申明的、講到的幾條以外,我覺得也是符合當時情況的,有些是不完全符合。這道鴻溝怎麼劃?那麼說究竟是錯誤還是罪,究竟是思想問題還是政治問題。我相信法庭會根據這個事實、會根據法律來做出判斷。這點只是作為個人一點希望吧,講一講。至於自己對這件事情前後過程,只把有關的一些情況向法庭再陳述一下,不是最後陳述,就是說一說自己當時出這些問題、這個情況。

這個一點呢,就是從5月上旬以後,因5月初最後一次執行任務,和軍區讀書班5月11號結束,大家感到這個情況好像基本上完了,說下一步做做工作就結束了,但是這裡面一個最大的背景出現了,我們黨內出現了這個分裂黨和支援動亂這個錯誤,發生在趙紫陽的身上,當時各種輿論,以及一些領導同志講話,調門都不完全是一致,有的時候側重於這個方面,有的時候側重於那個方面,這個思想就是沒有一而貫之下來,這在自己的思想上也產生一些影響。鄧主席的講話,“四二六”社論以及以後其他的一些領導同志講話,趙紫陽的自不再說了,那是支持動亂和分裂分裂黨。

那就說黨中央出現這些問題,影響到下邊這些問題,而應當實事求是加以分析,就是不能把這些問題就完全歸罪於一個集團軍軍長身上,因為一個集團軍軍長瞭解的情況也是非常有限的,是吧?除了傳達一個鄧主席講話、一個“四二六社論”,還有就是接受任務時候講那麼多,其他情況也並不是什麼也不知道,其他情況也都講過,什麼民主法治軌道解決、有的要用監察部什麼來解決、有的要通過民主對話來解決,講過好多的意見呢。而且講的一些意見都是,正確的一些東西都是受到歡迎的,但是以後這些事情好像沒有繼續下去,當然我不是說現在這些事,把動亂、暴亂的原因歸罪於我們工作沒有做到家,不是這樣的,因為它遲早要發生,那就說敵人在這塊尋事鬧事,但是如果不出現這個分裂,要一而貫之,這個貫到底,那麼可能問題也就不至於這樣嚴重啊。所以這個問題啊,我想請予以適當的考慮吧,這種環境背景。

第二點呢,我是從五月十五日發病,是吧,五月十八日中午去執行任務,中間這個病的挺厲害,我是在病中啊,做著處置去接受任務的。如果我對這個任務還是很消極,是吧,當時總院的醫生們就不讓我去,我說我還是要去,我說你們想辦法幫我處置處置,我就說我還是要去,我沒有找任何托詞,我去打滑頭仗,當然這個任務去了以後思想引起很大震動,思想有很多不同,那是另外的問題,那是自己的問題。

去接受任務,是在那樣一種情況下去接受任務的,這是第二點具體情況。

第三點具體情況,我首先是詢問了一些不清楚的問題,是從黨內生活來說,把一切說在明處,那麼說即使錯誤,還是個意見,現在就是把這個意見、錯誤和罪行、指控都在一起,而且現在呢就是把這個說到的一些意見已經變了樣了,不符合我原來說的意思,那這個話這個事情將來怎麼樣處理?這個作為個人來講,只能把這些想法說出來,因為怎麼變的沒有想過,頭腦裡就沒有的東西,它怎麼就出來了、變了形了?這個就不清楚怎麼回事了。

第四點,我是在這個首長們講完了,詢問了一些不清楚的問題,以後才講的意見,而且講的意見也不完全是消極的。講的意見,那麼說有也有值得考慮的地方,那麼現在這些問題呢,在這個起訴書裡邊都沒有反映啊,好像首長沒講完了以後,我就“蹬”就出來了,以後就是不同意,它不是這樣的情況。

那麼既然詢問了這個一些不清楚的問題,我還是有做傳達的準備,就說思想上、在這時候因為時間很短,頭腦裡頭反應不了這麼快,有一些考慮的角度也不一定恰當,但是畢竟有這種準備,那要傳達就別傳達錯了,把這個事情得弄清楚。

第五點呢,首長們說了幾次,說你還是傳達吧,就原原本本傳達了。首長並沒有在當時也沒有太說更多的話啊,因為當時這個氣氛呢,不是那麼很緊張啊,固然我自己這種想法發表出這種意見,當時可能首長沒有想到,我自己思想也沒有準備啊,但是經過講了幾次,我還是傳達了。再一點就是,十八號晚上到十九號上午以及二十號早晨,這個做了啊,勉強參加這個表示也做了,具體什麼時候去的這個表示,去以前,也曾經給指揮所打過電話,當然中間這些變化,像今天上午出示這些證據,那些細節,我就鬧不清楚啊。那麼從我自己來講,18號晚上是比較勉強,以後為什麼我就沒有再說這個跟軍區直接報告呢,因為當時王福義同志講,他說我跟軍區首長報告了,我現在那就報告了吧,報告了第二天早上再跟我落實一下子,這就完了啊。這點確實沒有再釘死啊,如果說他沒有報告,那我就再委託他報告,是不是啊。那麼已經報告了,說當時自己這個臺階也下不來,所以自己也沒有再打電話,但是這種表示是肯定有的,而且首長們也知道我要去,因為20號早晨打電話,給我打了幾次電話,我打了電話,完了以後吳潤忠又給我打電話說不讓你去了,你就擱那塊住院吧。今天上午這些證人證言裡面也講到了,是吧,要切斷和我聯繫。那就是這時候我要去的,表示那軍區首長還是知道的呀,至於說通過什麼管道知道,那我就不清楚了。

當然軍區首長採取這種措施,我認為也必要,因為當時對我思想不摸底嘛,你思想通不通,你究竟去怎麼樣執行這次任務啊,那去了以後還要按上級指示辦,但是當時上級摸不清你的底啊,所以我沒有埋怨上級的意思啊,因為這個原因還是自己匯出來的,還是自己引起的嘛。

最後一點要說明的呢,這個當時我自己是處在一種非常痛苦和矛盾的心情當中,做了個人不參加的表示,因為從4月下旬以來,是吧?碰到這些事,有些問題想不通,有些問題呢,就說了以後呢,好像沒有做,所以這時候呢,自己有想法,作為個人來講,你不管你怎麼想不通,是你個人的問題。但是我有想法,這不能影響單位、不能影響38集團軍黨委常委,當然事實上一點影響沒有,這個是不可能的,情緒上是吧、心理上、精力上這都是有的,但是自己啊,覺得個人和組織,這畢竟是兩碼事,你個人是個人,你組織是組織,不能因為你個人就影響到組織,影響到這個單位,這是當時的一點考慮。

當時第二點考慮呢,就說個人這個怎麼辦?個人怎麼辦呢?或者是直陳己見吧,把自己意見呢痛痛快快都講出來,這個是自己都講了,當然自己當時也可以有另外一種態度:沉默不語吧,可是我前面已經說到了,說不能老沉默不語,有些意見還能講出來吧,也許這個意見上級聽了以後,有點道理呢。所以自己還把這意見這個講出來啊。所以自己就是沒有別的辦法是吧,好像只能夠採取就是因為對這個事不通,你又不能採取別的辦法,不能影響單位,所以只能夠作出就是不願意參加、自己不願意參加這樣一種表示,而且我離開這個85樓的時候啊,給劉政委打了電話啊,做了報告啊,一方面確實是從醫院出來的,當時也有病啊,另外一方面自己思想上也確實是不通,是吧?說明明白白的,把這些事你是不通你還是怎麼回事,是吧?都說清楚。所以以上這些情況,我相信公訴人、法庭也都有所瞭解,所以這些事情呢,本來不必要在辯論的時候再講,但是既然有這道程式啊,這個審判長允許我講一講,那麼我就再講一講啊。供參考。完了。*

下麵由辯護人辯護。

辯護人:審判長、審判員,軍區法律顧問處接受了被告人徐勤先的委託,指派我們擔任徐的第一審辯護人。依據中華人民共和國刑事訴訟法第二十八條之規定,辯護人的責任是根據事實和法律,提出證明被告人無罪、罪輕或者減輕、免除其刑事責任的材料和意見,維護被告人的合法權益。

開庭前,我們查閱了本案的全部材料,會見了被告人,剛才又聽取了法庭調查情況和公訴人的發言,我們認為:徐勤先作為一名集團軍軍長,本應堅決執行命令,而徐卻向軍區首長表示個人不參加執行任務,不去執行命令,問題的性質是嚴重的,但考慮到本案中的一些具體情節問題,為了維護被告人的合法權益,現發表如下辯護意見:

1、徐勤先在受領、傳達戒嚴任務階段,向上級和上級首長和組織表示個人不參加執行戒嚴命令的行為,屬於指揮員不執行戒嚴命令列為的一種較輕的形式,如徐勤先在受領任務後,在首長的責令下,還是按要求打電話給集團軍王福義政委,傳達了軍委和軍區賦予38集團軍的具體任務;在傳達後,他向軍區首長表示:“任務已經傳達下去了,自己回總院住院去了”,以後這事就不要再找他了。這些事實,與他所述的自己並不想影響所屬部隊執行命令、而僅想自己個人不參加執行戒嚴命令的目的是一致的,應屬於指揮員個人不執行戒嚴命令的行為,對這種行為本身的危害程度的認識,我們可以分析一下指揮員不執行戒嚴命令的基本形式。

譬如按照行為發生的時間,可以分為在受領、傳達戒嚴任務階段、組織動員和物資準備階段、奉命出發開進階段以及實行戒嚴階段的不執行命令的行為。很明顯,由於上述每後一階段的不執行命令的行為,都比前一階段的不執行命令的行為,更直接侵害集體個體。因此其危害程度,後者大於前者。所以,發生于授令傳達任務階段的不執行命令的行為的危害輕于發生於後面幾個階段的不執行命令的行為。

再如,按照所採取的方式可分為三種:第一種是雖向下傳達命令,但向上級表示個人不參加執行命令的行為;第二種是陽奉陰違的利用指揮員職務,妨礙所屬部隊執行命令的行為;第三種是扣押上級命令,控制所屬部隊抗拒執行命令的行為。顯然,上述第一種方式的行為的直接後果,因能夠使上級及時發現並委派新的指揮員,去組織完成戒嚴準備工作和戒嚴任務,一般不會貽誤戒嚴時機和直接影響戒嚴任務的完成,是指揮員不執行戒嚴命令列為的較輕的一種;而第二種方式的行為因具有一定的欺騙性,和對所屬部隊執行命令的妨礙性,將導致上級發現晚、可能會貽誤戒嚴時機,或者直接影響戒嚴任務的完成;而第三種方式的行為,是最為嚴重的一種,會對戒嚴任務的完成發生直接嚴重的影響。

從上述分析中看出,就指揮員不執行戒嚴命令的行為看,徐勤先的行為無論是在時間階段上、還是在採取的方式上,都屬於較輕形式的不執行戒嚴命令的行為,這一點請法庭在處理本案時給予考慮。

2、徐勤先在戒嚴準備階段曾向組織表示自己要參加執行戒嚴任務。經過法庭調查證實:1989年5月19日,當副政委吳潤忠同志受38集團軍常委的委託,到軍區總院做徐的工作時,徐表示自己參加執行戒嚴令,並向吳提出了要部隊搞好執行任務動員及開進途中應注意問題等三條建議。這裡需要說明的是,軍區雖於19日上午已通知38集團軍,切斷徐與部隊的聯繫等,但由於吳潤忠十九日早晨已離開集團軍,趕往軍區總院,不知軍區的通知精神。故當徐問軍區能否同意他參加執行任務時,吳曾答應軍區是會同意的。因此,徐的這種表示應視為是直接向本級組織和間接向上級組織的意思表示。由於徐知道其部隊奉命應於20日開進集結,他表示參加執行任務時,尚處於組織動員和物資準備階段,並且有開始履行職務的言行,這些應視為徐勤先對自己原表示個人不參加執行命令列為的一定程度的終止情節。這一點也請法庭在處理本案時予以注意。

3、對徐勤先一案中其他情節的意見。一是徐勤先入伍40年,在革命戰爭和部隊建設中,曾做過一些有益的工作;二是1989年5月上旬以前,徐曾兩次帶部隊進京完成了軍委下達的維護首都秩序的重要任務;三是他於5月16日患病住院後,在客觀上缺乏對動亂真相的深刻瞭解,也在一定程度上受到了當時錯誤輿論導向和中央兩種聲音的影響,這些客觀情況,也請法庭在處理本案時予以全面考慮。完了。

公訴人對被告人、辯護人在辯論中提出的問題,有什麼不同意見?有什麼要說的?

人蔣:審判長審判員,剛才辯護人、被告人就犯罪的事實性質提出了辯護意見,我們注意到了辯護人所提出的犯罪的性質屬於犯罪的終止這一點,說已經構成犯罪,作為有罪的辯護,這一點與我們的認識是一致的。但是就被告的犯罪行為,是否屬於犯罪的終止?我們認為:被告人的行為不是犯罪的終止。按照法律規定:犯罪終止必須具備三個條件:

第一,被告人必須是在犯罪過程中主動停止犯罪。犯罪行為只能發生在犯罪的預備、或者未遂階段,在既遂階段,也就不存在著犯罪的終止問題。這是犯罪終止的一個條件;終止的第二條必須是自動的終止。也就是說,犯罪分子本可以將犯罪進行到底,按他的意志自動終止了自己的犯罪行為的;第三條必須是徹底的終止,也就是說犯罪分子必須是徹底放棄了犯罪。

縱觀被告人徐勤先的所作所為,不符合這犯罪終止的三個條件。

第一,被告人5月18日公開向軍區領導表示拒不執行戒嚴命令,犯罪已經完成。而且在5月18日晚上7時許,再次打電話向劉政委表示:“任務我已經傳達下去了,以後的事不要再找我了”,劉政委也明確的講到你就住你的院吧,以後你也不要再管部隊的事了。這都說明領導對徐勤先所表的態度也是明確的,徐勤先講的再清楚不過了。這是既遂了的犯罪,十九日雖然經軍裡面領導做工作,徐始終沒有向任何領導表示過願意執行,這說明徐的違抗戒嚴命令是實行中了的犯罪,根本不存在什麼終止的問題。

第二,雖然徐在十九日曾經向集團軍吳副政委表示過願意執行,但徐本人也清楚他接受的任務是軍委調三十八集團軍進京執行戒嚴的命令,這個命令不是軍區的、也不是集團軍的,命令一旦下達,絕非兒戲。徐已經明確表示了拒不執行命令,如果再要參加執行的話,決定權不在軍裡面,也不在軍區,而在軍委。因此5月19日的表示,並不影響違抗戒嚴命令的構成。第三,按照終止的第三個條件,犯罪分子必須是真心實意的,徹底放棄犯罪。而被告人直到5月24日被撤銷軍長職務時,還向政治部的領導表示“錯不錯,要歷史來檢驗”,言外之意,違抗戒嚴命令的行為是正確的。請問:這又怎麼叫徹底犯罪終止放棄犯罪呢?又怎麼能稱得上是犯罪的終止呢?這是我要答辯的第一個問題。

另外剛才辯護人提出了被告人犯罪時受各種客觀因素的影響,和受上級、受這個當時社會條件的兩種聲音的影響,對這個問題,我們認為,這個就是說當時社會各種方面的影響是客觀存在的,但是決定的因素還在被告人主觀上,這不能作為減輕徐勤先違抗戒嚴命令罪罪責的一種理由。

第一,雖然任何事情的發生、發展和變化,都受當時當地的社會條件外界因素的影響,但這不是本質的。馬克思主義認為外因是變化的條件,內因是變化的根據,外因是通過內因來起作用的。被告人違抗命令是受資產階級自由化思想的影響、世界觀改造不徹底、在關鍵的時刻與黨離心離德、政治立場不堅定造成的,這才是本質的東西。

第二點,個人服從組織,下級服從上級、全黨服從中央,服從命令是軍人的天職,違令者有殺頭之罪,這是一個普通軍人起碼的常識。作為集團軍的軍長徐勤先對這一點是清楚的,當時徐曾以不怕撤職、不當軍長來表示抗命的決心,這說明他的主觀的故意是明確的,而且也做了充分的思想準備。

第三點,如果說受兩種聲音影響,那麼在當時,受兩種聲音影響的絕非徐本人一個,其他同志在關鍵的時刻為什麼能夠堅決執行命令、出色完成任務呢?我覺得最根本的是這些同志在政治上過得硬、在行動上才能夠與中央保持一致性;第四點法律所追究的,是被告人違抗戒嚴命令的行為,以及這個行為給我們國家給我們的黨、給社會所造成的危害,對於說思想上受什麼種種原因的影響這都是思想動因上的東西,這不影響犯罪性質的認定也不影響犯罪事實的認定,不是法律上從輕的條件。

下面我答辯第三個問題,剛才辯護人、被告人都講了:在提出不執行命令時是以個人身份,好像就是說我個人沒有代表組織,沒有代表部隊抗命的,這個情節較輕。我認為這個問題是不能成立的。首先,這個軍區通知38集團軍的軍長,到軍區接受命令,這說明軍區授予命令是給38軍授予的,絕不是給徐勤先一個人授予的,徐勤先來接受任務當時也是代表38軍來接受任務的,所以徐勤先當時違抗命令是以軍長的身份,而不是以個人什麼名義,況且說以個人名義也不允許違抗命令。另外,徐雖然向部隊傳達了命令,但徐的行為本身對38軍也造成了嚴重的影響,從這一點來說呢,徐本身這個以個人身份違抗命令,說減輕是可以減輕罪責,這也是不能成立的。至於說被告人在接受任務時,提出了可以撤銷我的軍長職務,這說明他是以個人名義。我覺得這當是恰巧表現了被告人堅決不執行命令的決心。並不能說明徐勤先當時抗命時,是代表個人的身份去執行命令去違抗命令的。

另外,剛才被告人在這個自我辯護當中,講到了很多證言和自己記述不一樣,這個意思是講這些證言不客觀,我們認為這種說法是沒有根據的。首先,根據刑事訴訟訴訟法第31條的規定,證人證言是證據的一種,而且這些證人證言都是根據當事人,根據當時的事情的事實做出的,經過偵查人員依法提取、並由檢察院審查核實的具有法律效力。

第二點根據法律規定,能夠證明案件真實情況的都是證據。刑事訴訟法第35條也規定,只有被告人供述沒有證據的不能定案,沒有被告人供述,證據確實充分的,可以定罪量刑。當時在場的人不止徐勤先一個人,也不是在場的當時這一個兩個證人,而是很多人當時說,這個證人所出示的證言是客觀的。本案起訴書在認定的犯罪事實上,每一句話都有兩個以上的證人證言作證實。所以,我們起訴書上認定的犯罪事實是客觀的,這些證人證言也是起到法律效力的,是可以作定案的根據的。

剛才辯護人和被告人也都提到了,要全面看待被告人歷史的表現情況,對這一點我們在公訴詞中已經講到了,為了把這問題進一步再講一下,現在我想講這麼點意見:我們黨內歷來政策是獎懲嚴明、功過分開,既不能因被告的功績而掩蓋其犯罪,也不能因犯罪不考慮一生的歷史。這個在公訴詞中我們講得很清楚。被告人徐勤先在工作中確實表現不錯,黨的十一屆三中全會以來,連續由一個團職幹部提升到集團軍的軍長,這說明党對徐勤先的工作是肯定的,而且該給予的也都給予了,但是不能因為被告人工作表現不錯,在犯了罪就不追究其刑事責任,是被告人自己不珍惜黨對自己的信任,不珍惜自己的榮譽,不注重從政治上解決與中央一致的問題,導致了在關鍵的時刻不能夠衝鋒陷陣而違抗了軍令,這是黨紀國法所不容許的。今天法律所追究的,也正是被告人違抗軍令,給黨和國家所造成的社會危害的行為。

再一點就是被告剛才講到:我是在發揚民主,我是在正常的提意見,不是要違抗軍令。企圖以此來抹殺其違抗軍令的實質,這是不能允許的。發揚民主與違抗軍令,是性質不同的兩碼事。首先二者的性質不同,發揚民主是在集思廣益的基礎上達到統一思想、統一步調、統一行動,目的是為了取得更大的勝利。而違抗軍令,無論是戰時還是平時,都是極端無政府主義的表現,結果只能是損害革命,給革命的事業造成重大的損害。其次,二者的發生的背景和條件也是不同的,發揚民主是在平時黨內的正常生活,開展批評和自我批評的一種表現,而違抗軍令,是在上級的決定已經下達以後,必須要無條件執行的問題。

第三,二者發生的結果也不一樣。發揚民主可以得出好多種結果,也可以使一個意見得到否決,或者得到更加完善;而違抗軍令只有一個結果,這就是說給革命事業造成損害。由此可見5月18日被告人在明確了軍委下達調38軍進京執行戒嚴任務的命令時,拒不執行命令,無論在什麼意義上講都不是在發揚民主,而是違抗命令,被告故意將兩個性質不同的問題混為一談,目的在於推卸責任,這是不能允許的。

另外剛才被告人講到,我是認真做了這個記錄的,從我思想上來講,我是個人不想轉達,是我個人不想執行,部隊還是要執行的,從而呢一是想說明他對中央的決策對軍委的命令是擁護的、而不是反對的。事實恰恰相反,經查,被告人當場確實做了記錄,也確實核對了有關的資料,但是這不能說明被告人對軍委的命令是擁護的、是執行的。我們判斷一個人,究竟如何,不僅要聽其言,更要觀其行。被告人當即不僅明確表示了自己不執行,而且在行動上也沒有執行軍委的命令,這怎麼能夠說在思想上是想執行的?在這個行動上,只是執行不堅決的問題呢?

剛才被告人還提到了關於後果的問題,認為社會上雖然有各種各樣的傳說,這個與自己沒有關係,不能把這個責任都歸到自己的身上。請被告人應該注意,我院在剛才發表的公訴詞中,已經講明瞭被告人所造成的後果,這些後果是由被告人的行為所引起的,並沒有說,這些後果都是被告人所造成的。但是我們注意到這樣幾個問題:一是5月18日前社會上確實存在著不少關於部隊包括對38集團軍和徐本人的傳說、傳聞,經過查證,在這期間,尚未發現被告人與社會非法組織有組織上的聯繫,也沒有發現徐將自己將不執行命令的想法和打算向社會上流露。這一點呢,這個剛才我們已經講清楚了。社會上的傳聞,在十八號之前與徐勤先無關,這段時間的傳聞當中,也沒有明確點到38軍徐軍長的名字,因此5月17日,解放軍報就此專門發了闢謠的消息。

第二點,經過調查,徐在五月十八日違抗戒嚴命令前,徐對社會上的一些傳聞和一些謠言是知道的,按說你作為一個高級的指揮官,聽到社會上這麼多關於自己的政治謠傳,本應提高警惕、嚴防上當,用自己的堅決執行命令的行為來闢謠,這樣才對黨對人民、對革命的事業更為有利。而事實恰恰相反,徐勤先在5月18日當著眾多軍區領導的面,公開拒絕執行命令,用自己的行為把謠傳變為現實。由此可見,被告人主觀的惡性並非一般。

第三點,被告作為一名高級幹部,在党和國家處於生死存亡的關鍵時刻,在關鍵的問題違抗軍令,應該到位而不到位,這本身就把自己違抗戒嚴命令的行為公開暴露於社會和部隊。大家知道,謠言並不可怕因為謠言可以用事實來戳穿,而被告人違抗戒嚴命令的行為,在社會上暴露的事實卻是難以用輿論加以澄清的,這種行動的影響和造成的後果可想而知了;第四點更主要的是,徐的行為客觀上迎合了國內外敵對勢力的需要,給我們黨給我們的國家、給我們的軍隊造成了嚴重的危害後果。上午法庭所列舉的國內外的一些事實就已說明了這些,這裡我不再一一列舉了。

綜上所述,這些事實都說明,被告的行為所造成的後果是嚴重的,他不僅干擾了首腦機關的工作部署,在部隊內部造成了思想上的混亂,而且在客觀上支持助長了動亂分子的囂張氣焰,為他們樹立了一面旗幟。徐的行為且還向世界輿論公然宣佈,在中國確實發生了一個將軍抗命的這樣一個事實,這些難道不都是後果嗎?我就答這麼多。

人:我補充答辯一個問題,剛才被告人提出了一個問題,就是當時他在違抗命令的時候的動機是好的,是在關心國家的事情,因此不構成犯罪。我們認為這個問題是被告人對犯罪構成的一種錯誤認識。一般地說,所謂的犯罪動機是指驅使犯罪、實施犯罪行為的內心起因。根據法律的規定,一般地說動機不是構成犯罪的必要條件。只有那些特殊犯罪,動機才是構成這一個罪的條件。犯罪動機是多種多樣的,同一個犯罪可能出現不同的犯罪動機。

被告人徐勤先違抗戒嚴命令的動機,也是一個錯綜複雜的動機。既有因對中央決策不理解產生的擔憂和抵制這樣一種動機,也有因怕承擔責任這樣的動機,同時也有政治立場不堅定這樣的問題,因此對被告人的動機不能簡單的用好與壞來評價,但是有一點可以說清楚,從現在我們查證的情況來看,徐勤先沒有反黨反社會主義的動機因此我們認定他是違抗戒嚴命令罪,是一種職務犯罪,那麼鑒於動機不是構成違抗戒嚴命令這一個犯罪的必要條件,所以就本案來說,無論徐勤先是出於何種動機,並不影響對其構成違抗戒嚴命令罪的認定,但是考慮到被告人當時犯罪的動機是一種錯綜複雜的動機,因此我們也提請法庭在量刑時,考慮到這個問題。我就補充答辯完畢。

下麵由被告人發言。

人王昌生:我再補充答辯一個問題。剛才被告人在進行自我辯護的時候,其中提到了一個問題講到他在問題發生之前,正在住院。當時身體狀況不大好,這個對他的這個思想有一定的影響。這個需要說明一下,根據我們調查瞭解掌握的情況來看,在5月18號的中午38集團軍的副參謀長唐明洪,在通知徐勤先到軍區開會的電話中,已經詢問了他的身體情況。當時問到被告的時候,被告人明確地表示身體沒有問題,可以到軍區參加會議。

第二是5月18號的下午,當軍區領導同志看到被告人徐勤先講話,情緒不大對頭,他這個也表示不執行命令的時候,有的領導又問到被告人,是否身體有問題?被告人當場再次聲明說身體沒有問題。這是案發前,和徐勤先在違抗戒嚴命令過程當中,他對自己身體情況所做的回答。案發以後、問題發生以後,也就是在解放軍檢察院對本案進行偵查的時候,當問到他,當時呢,解放軍檢察院負責偵查的同志也曾再三問被告人:問題發生的時候身體怎麼樣?被告人在回答訊問的時候,也是這樣回答的,說不是身體問題,是思想問題。

今年的元月8號,也就是本院根據解放軍檢察院的委託,正式受理了對本案的審查起訴,以後蔣副檢察長又對被告人進行了訊問,訊問的時候又問到了當時他表態不執行戒嚴命令的主要原因是什麼?當時被告的回答也講到,主要是思想問題。因此綜合上面的事實說明,被告人把不執行命令的問題說成是病魔纏身等原因造成的,是不能自圓其說的。他今天這種說法,與他問題發生時和問題發生後的多次表態,也是不一致的,是自相矛盾的。

公訴人還有什麼意見?下麵由被告人發言。

徐勤先:有些問題請律師為我辯護。我個人要回答的問題是這麼幾個,我剛才沒有講病魔纏身,我就講我去接受任務的時候,意思我就沒有用身體不好作為藉口,不去接受任務,或者來推脫自己的問題。整個問題發生,剛才這個檢察員講的也對,幾次我都講到這問題,身體當時是不好但是它不是主要原因,主要原因是思想問題。我不想因為這個問題是你推到別處去,本來是個問題,你把它偷樑換柱,不是這麼回事。

唐明洪給我的時候打電話能不能去,我說身體好些了,能去啊。什麼身體究竟好不好,那個只有醫生來說當時那麼個情況,所以這個事,我沒有用這個來推脫我的過失罪責。沒有這個意思啊,這剛才我沒有什麼反駁的意思啊,我說明一下子。這是第一點;第二點,關於在這個社會上這個一些後果、一些傳言哪,那麼十六號住院,十八號中午,這經過了十六號晚上、十七號一天、十八號就沒人了。說就這一天半啊,來來回回,反正到我那去的人、看我的不少。有人說我撤職了,說這個說那個,因為當時在病中啊,你說這個事確實也聽到一點,但是沒有十分在意,因為當時身體也不允許我去和他們討論這些問題,這是很痛苦一種狀態,但他有的說到了以後,我偶爾也聽到一句,是吧?有的也沒有答言,也沒有討論這個問題,這是第二問題。

第三問題呢,關於我在聽完了首長傳達完的任務,講的情況,並不是否認我這個問題的存在,不是這個意思啊,而是說我做記錄、詢問這些問題,有向軍裡面傳達的表示,就說有這個準備。但是說思想上有想法,思想有想法,但是有這個準備,所以這樣話呢,就詢問了一些問題。這個準確的、這個核對了、這個記錄是這樣一個意思,並不是用這個核對來否定我有問題,不是這個意思。剛才我的辯護也不是這個意思啊,問題歸問題,就說當時思想上有哪些想法啊,如實地向法庭陳述,因為你既然有這個要傳達,要傳達你就得傳達準確。我要不想傳達了,不想傳達了你管他准不准?你乾脆你就那就是一種堅決對抗的姿態。實際上不是這樣的啊,就當時認真的做著記錄,有些記錄地方不准的就把它核對準。核對準的目的,那就說在我向軍區講這個意見以後,軍區讓我傳達,我仍然是要傳達的。只是說明這個問題,並不是推脫我問題的存在,這是第三點。

第四點呢,我沒有講到關於,不是說發揚民主這個問題,而是說在這個會議上,我是講到了一些意見,的確那天開會也沒有說咱們發揚發揚民主,大家再提提什麼意見,是這樣的,我是認為在這個會議上按照黨章、按照準則,就說可以提出一些意見,說我這意見錯誤、說我不該提、提的場合不對,是吧,這個都可以,但是不能夠把這個提出這些意見,這些事統統都歸到一起,我的意思是這個意思啊,並不是說藉口。說咱們黨內有正常的民主生活啊,好像我講這些問題,這個問題就不存在了,不是這個意思。因為一開始我就講到了,我說這麼大的問題,這麼大的群眾性政治事件,應該政治、主要用政治辦法來解決。調用軍隊。非要用武力不可,還有衛戍部隊、公安、有武警啊,非要用野戰軍,把它調到北京郊區保持威懾啊,建議誰誰誰來開會啊,結果現在建議誰誰誰開會,這個中間都劃掉了好幾個,所以我不想用發揚民主來推脫我自己的錯誤、我自己的問題。問題歸問題是吧,是罪責就是罪責。但是我把這些情況說明,就是說中間有這麼一段過程,我是作為意見來講的啊,至於說這些意見怎麼樣認定是吧,這個法庭上可以考慮啊,那麼今天作為就辯論階段說說,也有還有點合法權益,可以講一講,那我就把這個意見講出來啊。至於說怎麼樣認定,那就怎麼樣認定。我也不認為這是一個發揚民主這個會啊,但是在我的觀念裡頭呢,你說上級講了什麼樣的任務,有什麼不同的意見好像還可以提一提,至於說你提錯了、提不對了,你這個該承擔什麼責任你承擔什麼責任啊。我只是想說明這麼一點,(這是)第四點。

第五點,這個事情反正按照法律程式,我是沒有辦法,這個怎麼說呢,沒法說了,是吧?反正我不是那麼說的,比如說實實在在不是那麼講的,實實在在也沒有那樣說,實實在在也沒有那樣想。那麼說現在,許多證人證言證明我是這麼說的,那就從法律這個角度來講,怎麼樣認那就怎麼樣認定啊,但是要從事實來講,我看總有弄明白那一天。因為他沒有講,他根本就沒有想這個事,你說一個普通常識是吧?你可以說,現在不用說你是一個高級幹部了,你一個初級幹部是吧,一個這個基層指揮員也懂得這個軍隊是党絕對領導的,也不能夠說這個党的名義發佈不合適,也不能說這個完了以後,你讓這個什麼人大常委會和國務院去討論,一下子把這個中央和中央軍委都撇到一邊去。這是一個常識範圍內的事啊。這就是說情緒激動,他也不會激動到那個那個地方去。說這個事情,我不想說更多的話,因為首長們很多啊,這個而且大部分是這樣說的啊,但是我也確實沒有那樣講,我也確實沒有那樣想,沒有那樣想啊,這是一個問題吧?其他的問題,我看請律師給我辯護吧。

沒了?

徐勤先:沒了。

下麵由辯護人發言。

辯護人:剛才公訴人談到,犯罪構成與犯罪終止的問題。講到犯罪終止,影響犯罪構成剛才本辯護人不是這個含義、不是這個意思,終止並不一定影響構成,犯罪構成和犯罪終止是兩個不同概念。第二點,我國刑法規定,在犯罪過程中,自動終止犯罪,或者自動有效地防止犯罪結果發生的,是犯罪的終止。對於我國刑法這一條款怎麼樣和徐勤先在5月19日的意思表示,是否是終止的意思表示,本辯護人不想多說,試想分析一下,徐不參加執行命令的行為,是否尚處在持續的過程中?

資料來源:Jennifer’s World 曾錚的世界

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